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File No.130823

今、九州国立博物館で「神戸市桜ケ丘出土銅鐸」展が開催されている。タイトルに「特別公開・国宝」と付いているように、貴重な展示であり是非観てみたいと出かけた。展示されているのは神戸市六甲山中から出土した「銅鐸13個」と「銅戈7本」である。解説には『銅鐸に描かれた絵画が造形的に非常に優れている点などから、昭和45(1970)年に国宝になりました。・・・・・単純化された線画でありながら特徴をよく捉えている姿をご覧下さい』と書かれていた。作品には自ずと製作された時代背景が反映されるものだ。その環境を背景に、職人がこの精緻な銅鐸を作り上げたのである。弥生時代に生きていた人たちの息吹がそこにある。直接、本物に接することで、その社会や感性が感じ取れる。以前、やはり九州国博で公開された縄文時代の「火炎土器」からも、縄文人の激しいエネルギーが伝わってきた。作品が時空を超えて、直接語りかけてくる。博物館の良さはそんなところにあると言えよう。

「銅鐸」は、弥生時代・中期から後期にかけて作られた。用途ははっきりしていないようだが、一般的には祭祀用とみられている。出土しているのは、神戸・桜が丘にみるように、近畿地方が中心であるが、島根県の加茂岩倉遺跡からは、大量39個の銅鐸が出土した。これも国宝に指定されている。この銅鐸には、近畿地方出土の銅鐸と共通性もみられるという。銅鐸文化をもつ地域は、中国・四国地方から近畿地方、東海地方と広い範囲に分布している。ところがこの文化は、弥生時代終末期には、唐突に消えてしまう。さらに、「古事記」「日本書紀」には、全く出てこない。これは何を意味するのか。やはり、神武東征にみる九州の邪馬台国の勢力が、近畿地方に遷ってきたことが考えられる。祭祀の儀式は、その集団が時間をかけ作り上げ、伝承してきたものである。当然、敗れた側の儀式は駆逐される。
銅鐸
(加茂岩倉遺跡ガイダンスより)


四隅突出型墳丘墓(西谷2号墓)
(しまね観光ナビより)
もう一つ弥生時代終末期に、著しい変化をみせる祭祀がある。「四隅突出型墳丘墓」である。これは山陰地方を中心に、行われていた墳丘墓の形態である。弥生時代終末期から古墳時代に入ると、急激にこの墳丘墓は姿を消していく。それは「銅鐸」と同じ運命をたどっている。この墓制は当初、出雲と伯耆(ほうき)を中心に、中国山地の限られた地域で行われていた。ところが後期後葉になると、越前・加賀といった北陸地方まで拡大していく。左の写真は、出雲の西谷墳墓群の2号墓であるが、西谷墳墓群は、四隅突出型の中でも超大型に分類される。このことは出雲王国の存在と、北陸地方との政治的つながりを意味する。それはまた大国主命の国づくり神話にもつながっていく。大国主命は、国土を開拓、農業、漁業をすすめ、社会や人々の生活の基礎をつくられた。それが「豊葦原の瑞穂の国」である。



大国主命がつくった国・葦原の中ツ国が豊かであるのを見て、天照大神は、勢力下に収めようと考える。何度か交渉に派遣するがうまくいかず、最終的には武力に長けたタケミカヅチを派遣する。タケミカヅチは、剣を逆さまにして、尖った部分に座って、国を譲れと威す。孫子の兵法では、10倍の兵力があれば話し合いで決着がつくとしている。だが話し合いによる平和的な国譲りと言うにはほど遠い状況である。そもそも「国譲り」という表現こそ、勝者の論理である。圧倒的な武力の差の下で、国譲りが成立し、条件として大国主命のために、巨大な神殿(右写真)が造営されたのである。温厚な大国主命のもとへ多くの神様が集うということは、国づくりで、地方の首長から慕われていたと思われる。出雲風土記には「大己貴神のために、お宮を造ろうということで、たくさんの神様が集まってお宮を築いた。だからこの場所を杵築と言う」と書かれていると聞く。四隅突出型墳丘墓と銅鐸文化の消滅という現実の世界が、大国主命の国譲りという神話の世界と見事に結びつく。
島根県立古代出雲
歴史博物館HPより


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九州国立博物館「銅鐸展」