森浩一先生・逝く 随筆のページへ

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File No.130813

8月6日、日本考古学会の重鎮・森浩一先生が逝去された。私も何回か森先生の講演を聞きにいったことがある。飄々として飾らない、気さくな感じのお人柄だった。訃報を伝える新聞には「考古学と民俗学、人類学、化学などの学際研究の大切さをいち早く主張、自ら実践した」と書いてあった。そういう広い視野からの森先生の主張は、すべてにわたって傾聴に値することばかりである。その森先生のモットーは「学問は自分のかい性でやるもの」であった。だから政府や企業からの研究費支援は受けず「町人学者」を貫いたという。近畿説の"学者もどき"に教えてやりたい生き方である。森先生の新聞連載『「倭人伝」を読み直す』の最後は「 誇り高き倭人 われ志を継がん 」という言葉で締めくくられている。この精神は必ずや"良識ある九州説の考古学者"に引き継がれていくに違いない。

森先生の『「倭人伝」を読み直す』という西日本新聞の連載は、平成22年1月から3月にかけて36回にわたって掲載された。私は、その全部を切り抜いて、ファイリングしている。先生は早くから「三角縁神獣鏡、国産説」を唱えられた。連載第5回では次のように述べられている。『中国鏡の紐(ひも)を通すための鈕(ちゅう=突起)は丁寧に仕上げている。ところが日本列島でもっとも多く出土する三角縁神獣鏡は、鋳放しでふさがっていたり、鋳張りがついたままになった例が多く、中国の皇帝が他国の王への贈り物にするものではない。このような鏡は日本列島で大量に製作された呪具または葬具だったとみている』。また連載第33回では『四世紀になって近畿地方を中心に大きな前方後円墳が造営され始めると、中国の神仙信仰の影響を受けて、三角縁神獣鏡とよばれる日本列島特有の銅鏡を大量生産するようになった。これは倭地で作られた倭鏡(ぼう製鏡)である』と書かれている。

また先生は北部九州にあった邪馬台国が、ヤマトに遷ったとする「東遷説」である。卑弥呼の時代には北部九州にあったが、台与(壱与)の時代に近畿に遷ったのである。連載第22回では『投馬国と邪馬台国の記述には臨場感がない。それと狗邪韓国をへて対馬国から不弥国までの方向の記載は現在に地理とも矛盾しない。ぼくは投馬国と邪馬台国の記述は、卑弥呼の死後、女王台与が晋へ遣使したときにもたらされた新しい情報を陳寿が倭人伝の編述にさいして挿入したと考える』と書かれている。投馬国と邪馬台国の部分は、泰始二年の台与の遣使にさいして魏にもたらされた新しい情報を、陳寿が倭人伝の仕上げにさいして挿入したという考えである。狗邪韓国から不弥国までは、方向と里程は正確である。投馬国と邪馬台国への里程は、突然具体性を欠いている。先生の説は、不弥国から邪馬台国までの行程を実に合理的に説明している。「郡より女王国に至る万二千余里」は、修正前の邪馬台国の所在地である。

北部九州の弥生文化と、ヤマトの前期古墳文化の連続性は、「東遷説」を裏付けるものである。連載第34回では『銅鏡を墓へ納めることは近畿地方の弥生時代には皆無といってよい。平原古墳(糸島市)と外山茶臼山古墳(桜井市)とでは百年ほどの隔たりがあるとはいえ、北部九州からの風習の伝播とみるほかなかろう。平原古墳は、すべての銅鏡を破砕して墓に埋めていた。外山茶臼山古墳でも銅鏡は破片となって出土した。北部九州とヤマトとの関連がこの点でも強まった』と書かれている。さらに"ヤマト"という地名について、連載第30回で『邪馬台国は古代の郡名として残る山門郡(福岡県)のほうがふさわしいとぼくはみる。古い地名はそれなりの歴史的価値をもっているので軽視してはならない』とされている。すべての資料を分析し、総合的に判断すれば、邪馬台国が福岡県にあった確率は「99.9%」であり、その後、近畿ヤマトへ遷ったという結論に達する




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2013・08・10 訃報を伝える新聞 平成22年1月〜『「倭人伝」を読み直す』(全36回)