勘三郎さん・逝く 随筆のページへ

トップページへ

File No.121212

人間の"死"は、常に我々の身近にある。もし毎年120万人の"誕生"があるとすれば、その裏に120万人の"死"がある。言ってみれば日本だけで、年間死者120万人ということになる。もし私が死んだとしても、わずか120万分の1にしかすぎず、極めて些細な存在である。その対極にあるのが「掛け替えのない」という存在である。第十八代中村勘三郎さんが去る5日亡くなった。日本文化にとって、それこそ"掛け替えのない人"を失った。今朝のテレビ番組で、昨日行われた勘三郎さんの密葬の様子が放映されていた。密葬とはいえ約500人の弔問客があったという。出棺に際しては拍子木が鳴り、「中村屋!」の掛け声ががかかり、大道具さんたちが心を込めて作った天使の羽の白い紙吹雪が舞った。勘三郎さんの足元には、あの世に行っても、檜舞台が踏めるようと、小さな檜の板が納められたという。平成の名優・勘三郎さんは、誰からも惜しまれつつ逝ってしまった。

私は以前こんなことを書いた。『勘三郎さんは、古典をしっかり受け継ぐと同時に、常識を破る新作の歌舞伎にも挑戦し、実にエネルギッシュである。ニューヨーク公演では、3分の1以上を英語のセリフにするという大胆な試みだったが、結果は、観客の鳴り止まないスタンディングオベーションだった。・・・もちろん伝統芸能として古典をしっかり守り、大事にしているというベースがなければ成り立たない。勘三郎さんにして、今も歌舞伎界の重鎮に教えを乞い、真髄の探求に終わりはない。その時の真摯な態度、真剣な眼差しは、まるで新人であるかのようだった』。ニューヨーク公演のあと、勘三郎さんはこんなことを言っている。「体が震えるような興奮を覚えた。単なる伝統芸能ではなく、人間の魂が交差するドラマとして見てくれた」。どこで演じようが芝居小屋が、役者たちの熱い魂で満たされれば、観客も魂で受け止める。国や言葉や時代の垣根を越えて"魂"を揺さぶる芝居こそ、役者が目指すところであろう。

勘三郎さんが亡くなった後、いろいろな番組で、小さい時からの映像が放映された。勘三郎さん(第十八代)は、文化勲章も受けた第十七代中村勘三郎の長男として誕生した。3歳で五代目勘九郎を襲名し、以後"天才"の名をほしいままにして今日に至った。しかし、天才といえども「ローマは一日にして成らず」である。天性の歌舞伎役者と言われた父親から、血に滲むような稽古に次ぐ稽古があった。それは稽古場で何度も倒れては立ち上がり、身体中が"あざ"だらけになるほどの、厳しいものであったという。勘三郎さんの息子、勘九郎と七之助にしてもまた同じである。こうして親から子へ、役者に宿る"魂"が受け継がれていく。私は先日の随筆で『「生命」は、しっかりした基盤の上に、環境の変化に適応し、進化を遂げ、存在し続けている』と書いた。親から受け継ぎ、叩き込まれたものは、即ち「基盤」である。その上をいかに現在のお客様に受け入れられる感性を持ち、それを役者の個性と存在感で彩るかである。

伝統を受け継ぐだけでは未来はない。勘三郎さんは「現代を生きる歌舞伎役者でありたい」と言った。そういう意味において、勘三郎さんの右にでるものはいない。それはコクーン歌舞伎や平成中村座といったものに象徴されよう。「失敗するかもしれないが、やんないよりいいだろう。昔の歌舞伎役者はみな、のるかそるかやってたでしょう」。そのあっと驚く斬新さも、それを納得させ、受け入れさせるだけの“突破力”と“人間的魅力”が勘三郎さんにはあった。そもそも出雲の阿国が始めた歌舞伎踊りは、全くの無からの出発である。それに時代を追って新作という新しい血が注ぎ込まれ、その活力が現代に生きる歌舞伎を支えている。勘三郎さんの夢は「僕がいなくなった未来にも、いろんなところで中村座やなんかで芝居をやってくれていること」だった。その夢は今、後に続く勘九郎や七之助に託された。


随筆のページへ トップページへ

2012年12月12日12時12分12秒
フジテレビ 「笑っていいとも」より