長崎街道400年・筑前六宿 随筆のページへ

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File No.121210
今年は、長崎街道が開通して、丁度400年という節目の年である。これを記念して、飯塚市歴史資料館や九州歴史資料館で展覧会が開催された。丁度私は、それぞれの近くに用事があり、両方の展示を観ることができた。展示資料によれば、開通400年というのは、「筑前国続風土記」巻十二の「内野村」の項が根拠のひとつになっている。それには「内野村は昔は無く、毛利但馬によって慶長17年(1612)に冷水越と内野宿が開設された」とある。一方、冷水峠を挟んで南側の山家(やまえ)宿では、「二日市庄屋覚書」の山家宿「エビス石神像」碑文に、「黒田24騎の一人桐山丹波の家臣志方彦太夫にあって山家宿の開設と冷水峠の開削にあたった」と記されているという。こういう人たちの努力で400年前、長崎街道が全通したのである。
長崎街道は、小倉〜長崎間(228km)を結んでいるが、25の宿場のうち、福岡藩内の宿場(黒崎、木屋瀬、飯塚、内野、山家、原田)の六つが特に「筑前六宿(ちくぜんむしゅく)」と呼ばれた。展示されていた「黒田続家譜」の記録は、福岡藩2代藩主、黒田忠之公の事績をしるしたものだが、この「巻二」には筑前六宿と冷水峠を通行した最古のことが記録してある。それには「寛永14年(1637)の暮れから翌正月に、上使松平信綱らが筑前六宿と冷水峠を通行し、島原の乱の鎮圧に向かう」とある。こういう風に、有名な事件と結び付くと、急に筑前六宿を身近に感じる。他にも「象志(ぞうし)」には、「象は享保14年(1729)3月13日に長崎を出発し、18日から22日にかけて筑前六宿を通過した」と記録されている。困難は承知で、あえて一番の難所である冷水峠を開削し、最短距離で長崎街道をつくった意義は大きい。
伊能図」に見る冷水峠付近
九州歴史博物館のすぐ隣にある小郡埋蔵文化財調査センターでは、「薩摩街道展」が開催されていた。これは長崎街道400年にあたって、脇街道として栄えた薩摩街道にスポットをあて、近世の小郡を振り返ってみるというものだった。「江戸時代から近代にかけて旅人が歩いた道を、一緒にたどってみませんか」というフレーズに、何か魅かれるものがあった。薩摩街道は、山家宿を起点に、鹿児島城下あるいは坊津を結ぶ街道である。小郡は、江戸時代から数多くの街道が通る、交通の要所であった。地図には「長崎街道」や「薩摩街道」の他に「旧筑前街道」や「彦山道」などが書かれていた。現在も高速道路は、九州自動車道・鳥栖JCで長崎道、大分道に分かれる。この地域が今も昔も、地勢的なものからくる、交通の結節点であることがよくわかる。
江戸時代に入ると幕府によって「宿駅制」が進められ、各地の街道が整備され始める。長崎街道は、島原の乱の鎮圧のために幕府軍が通り、参勤交代のために諸大名が通った。鎖国の時代にあっては長崎が貿易拠点として栄えていく。長崎に入ってきた外国の文化や学問、あるいは象にいたるまで、多くのものが長崎街道を通じて、日本に広まっていった。また長崎街道沿線には、カステラや丸ボーロといった南蛮菓子の文化がそれぞれ地域の文化と相まって根付いたこともあり、最近では「シュガーロード」などとも呼ばれている。展覧会のタイトルにある通り長崎街道は文字通り「世界とつながった道」だったのである。江戸時代の大動脈として機能した長崎街道が、日本の社会に与えた影響力を改めて教えてもらった展覧会だった。


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