森鴎外「高瀬舟」 随筆のページへ

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File No.121127

先日、小倉(北九州市)のイルミネーションを見に行った。JR小倉駅から紫川周辺まで、様々な光の演出を楽しんだ。連休で渋滞なども予想して、早めに出かけたので、イルミネーション点灯までには少し時間があった。せっかくなので、小倉の中心街にある「森鴎外旧居」を訪ねた。ここは森鴎外が、明治32年から同35年まで、旧陸軍の軍医部長として居住したところである。邸内には鴎外を偲ばせるいくつかのものが展示してあった。その中の「遺言書」を読んでみたが、これが実に感銘をうける内容だった。「生死別ルル瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス」。それは"死は一切を打ち切る重大事件である。その瞬間に、陸軍などそれまで生きてきたすべてのことを辞して、ただ一個人・森林太郎として死ぬ"という内容だった。

この機会に改めて森鴎外の「高瀬舟」を読んでみた。あらすじはこうである。主人公・喜助と弟は両親を亡くした二人っきりの兄弟である。生活が苦しい中、弟は病気で働けなくなった。弟は兄に申し訳ないと剃刀で首を切って自殺をはかる。ところが死に切れず、苦しんでいるところに喜助が帰ってくる。治りそうにない病気であり、剃刀を抜いてくれたら死ねると弟は懇願する。喜助は弟の強い頼みに、遂に剃刀を抜いて、死なせてやる。喜助は町奉行所で裁きを受け、遠島(島流し)を申し渡される。当時の罪人は高瀬舟に載せられ、高瀬川を下って大阪に廻されていた。喜助を護送するのは、同心・羽田庄兵衛。庄兵衛は、これまでの罪人とは明らかに違う喜助の様子を不思議に思う。話をするうちに庄兵衛は、喜助の心の深いところにあるものを感じる。


森鴎外・遺言書
軍医であった鴎外は「高瀬舟縁起」で「従来の道徳は苦しませておけと命じている。しかし医学社会には、これを非とする論がある」と書いている。死に瀕した苦しみから、本人の強い要望で解放してやる。これは「安楽死」という問題を提議している。日本では「安楽死」は認められていない。それは自分の意思で人としての尊厳を保ちながら死を迎える「尊厳死」とは違う。「庄兵衛はまだどこやら腑に落ちぬものが残っているので、何だかお奉行様に聞いてみたくてならなかった」。大正時代に書かれた作品だが、100年が経とうとする現在に至るまで"腑に落ちぬ"まま、結論は出ていない。人には「生きる権利」と同時に、状況によっては「死ぬ権利」もあるはずだ。それもまた“人間らしい生き方”の一面といえる。欧米にみる法整備が望まれる。

私は「高瀬舟」を読みながら、喜助の心情は、まさに弟の「安楽死」と同じだったのではないかと思った。喜助は庄兵衛に「これまでわたくしのいたして参ったような苦しみは、どこへ参ってもなかろうと存じます」と言う。兄弟がいくら一所懸命働いても暮しは楽にならない。喜助が掘立小屋同様の家に住む極貧の生活から抜け出すことになったのは、図らずも奉行所のお裁きだった。喜助は弟の苦しみ、痛みを解放してやり、弟は、兄・喜助をどん底の生活から解放した。弟は死ぬ間際"弟の目の色がからり変わって、晴れやかに、さも嬉しそうになった"と、新しい世界へ旅立っていった。一方、喜助の表情にも"晴れやかで目には微かなかがやきがある"と書かれている。つまり、喜助は今まで持ったこともない二百文を持ち、新しい世界へ希望をもって旅立とうとしている。二人の兄弟に「安楽死」というテーマでオーバーラップするものを感じた。
紫川・ 鴎外橋のイルミネーション


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