地図(2) 随筆のページへ

トップページへ

File No.121118

先日、日見子がこう言った。「高速走っている時、ちょっと気になる山があるのよ」。その山は糸島市街地から見ると、北北東の方向にあり、三角の形をしている。日本昔話に出てきそうな典型的な三角おにぎり山である。帰って早速、5万分の1の地形図を確認してみた。私は机の透明マットの下に、地形図を敷いている。これを見ると志摩方面には、250mの天ヶ岳(左側)と254mの柑子岳(右側)がある。この二つの山の前には、100mクラスの山が4つ連なっている。これからすると恐らく「柑子岳(こうしだけ)」ではないかと思われる。地形図の等高線の状況からも、南側(左の図では下側)から見ると、そう見えそうである。ということで早速、現地確認に出かけた。だが、残念ながらこの三角の形を確認できるはずの南側からは、竹やぶや小高い丘などに阻まれ確認することができなかった。
地元の人聞くと、この山は「山城」跡で小学生が遠足でよく行くという。 現地案内板があるというので行ってみた。これは草場側の登山口に立っていたものである。
博多湾を望む標高254mの柑子岳には、柑子岳城という中世の山城が残っています。柑子岳城は、豊後(大分県)の大友宗麟が、その領地である志摩郡一帯を守るために、永禄年間(1558〜1570年)に改築し、一族の臼杵新助を配して城を守らせました。怡土の高祖城とともに中世において旧糸島郡を二分する山城であり、柑子岳城代臼杵氏と高祖城主原田氏による再三の合戦がありました。
帰ってもう少し来歴を調べてみた。築城時期ははっきりしていないようだ。結局、合戦の結果、大友方が破れ柑子岳城は廃城になった。(「怡土城」については、随筆No.398で書いた)

伊能図(一部)
さて、地図といえば伊能忠敬を忘れるわけにはいかない。伊能忠敬は江戸時代、全国を測量し、日本で初めて精密な地図「日本沿海與地全図」を作った。それは足かけ17年、地球一周に匹敵する約4万キロを歩いて実測した。当然、この柑子岳の付近も文化九年(1812)、今から丁度200年前、測量している。ただし、糸島を測量した時、二手に分かれ、この東側は別動隊の「坂部組」が測量している。その様子を拾ってみた。
8/10坂部組は、今津村地内浜崎浦入江口の須崎より庄屋三右衛門。百姓喜平治。
8/11坂部組は、今津村より宮浦村、唐泊浦、西浦、西浦崎まで測る。それより山越えして宮浦船持治郎吉宅、同佐吉宅に宿泊する。
8/12坂部組は、西浦岬よりはじめ、西浦人家前まで測る。玄海島へ渡海の予定が波高で中止。宮浦へ再び宿泊
ここに出てくる、今津、宮浦、唐泊、西浦などの地名は、今もそのまま存在し、地形図で確認できる。


"地図を楽しむ月刊誌「地図中心」"の2012年10月号(通巻481号)の特集は「地図のある授業風景」だった。その巻頭に加藤敦史氏(立命館慶祥高等学校教諭)が「われわれは国土を、どのように描いてきたのか」という文を寄稿している。その中にはこう書いてある。「地図は国家のイメージを自ずと人々の心に形成させる道具であり・・・」「発想の転換や新たな価値観、さらには日本人のアイデンティティの育成など地理・地図教育には非常に重要で大きな可能性があると考える」。我々は国家という形のないものをイメージするとき、日本全体の地図をよすがにしている。伊能忠敬が精密な日本の姿を現わしたとき、幕府もまた新たな国家感を抱いたに違いない。現在で言うなら、月から見る地球の姿からイメージするグローバル感といったものかもしれない。地図が表しているのは地形だけではない。人間が日々営んできた歴史もまた教えてくれる。いろいろな地図の中にある情報は、読み取る人に新たな価値観を与え、更にそこから何かを芽生させる。


随筆のページへ トップページへ

伊能忠敬 宿泊地

文化九(1812)年八月十日
  町茶屋 作左衛門

唐津街道・前原宿 辰美商店という陶磁器屋さんの前にこの立札が立っている。