随筆400号・突破号
   
風の画家・中島潔
「生命の無常と輝き」展
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File No.121107

←今回も絵ハガキを買って家に飾っている

福岡アジア美術館で、「風の画家・中島潔が描く『生命の無常と輝き』展」があっている。中島潔氏が、京都・清水寺成就院に奉納した襖絵をはじめ、新作などを含め約100点が展示されている。テレビで「大漁」と「風の故郷−紅葉」の襖絵を観て、ぜひ実物を鑑賞したいと出かけた。中島氏が「風の画家」と言われる所以は、常に絵の中に風が流れているからだという。会場に掲げられていた説明には「日本の心を様々な切り口で捉えようとした」とあった。そんな中島氏の絵は、郷愁を誘い、どこかなつかしさを感じさせる。清水寺成就院に奉納された襖絵は、中島氏が5年の歳月をかけ完成した渾身の作である。込み上げてきた「熱きもの」に触発されて描いたというその絵から放たれるエネルギーに圧倒される。「襖絵から流れでた風は、月の庭の水面を揺らし、やがて宇宙へと流れていく」と書かれていた。絵に込められた「生命の無常」と「生命の輝き」はどういうものなのか。絵の前でしばし佇んだ。
<福岡アジア美術館>
「幾度の四季に出合い、たくさんの季節の絵を描きました。巡りくるように見えても、ひとつとして同じ春はありませんでした」と書かれていた。日本には四季があり、古来より日本人は、自然の中に美しい色彩を見出してきた。「自然こそ宇宙の真実」という中島氏の絵にも、四季の花々が咲き乱れ、豊かな色彩の中で子供たちが遊んでいる。そんな豊かな色彩の中にあっても"赤"は、自然を育む太陽の色として、日本人にとって特別の色であった。畏敬の念をもって扱われてきた"赤"は、縄文時代以来、様々なところに使われてきた。神社仏閣に使われてきた"朱"もまた同じである。中島氏の描く襖絵「風の故郷−紅葉」の前に立つと、燃えるような“赤”が押し寄せてくる。全面を覆う“紅葉”の波に圧倒され、思わず後ずさりする。作品には、他にも「紅葉」「里の秋」など、"赤"に彩られた作品がみられた。
<風の故郷−紅葉>
中島氏は「襖絵には生きる姿を描いており、悲しいこと苦しいことがあっても、絵を見て一瞬それを忘れてもらえれば」と話す。金子みすゞの詩をモチーフにして描かれたという「大漁」では、イワシの大群に圧倒される。イワシは弱い魚である。その弱い魚は「命」を守るために大きな群れをつくる。巨大なひとつの生き物であるかのように統制のとれた俊敏な動きをする。その姿は実に美しい。そうすることによってカマスなど、魚食性の魚などから命を守っている。金子みすゞは「生命はみんなひとつの輪の中でつながり合って生きている」とうたう。その輪の中で、彼らが守ろうとしているのは「種」である。「種」を守り生きの延びていくために、最初から一定のリスクを想定して、命の営(いとな)みを続けている。それはイワシよりさらに弱いプランクトンにあっても同じである。「弱いながらも優しい生命こそ凄くて美しい」として「大漁」の襖絵を描いたという。

<大漁>
「大漁」にも「風の故郷−紅葉」にも、少女が描かれている。しかし少女の表情は、紅葉や魚の大群が発するエネルギーに反して、どこか悲しそうでもある。少女はその中で「生命の無常」を感じているではないだろうか。燃えるような紅葉は、間もなく散っていく。それは木の幹が厳しい冬を生き抜き、翌年の春新しい芽を出すための儀式である。紅葉が守ろうとしている木の幹に乗って、少女は手を差し伸べている。それは紅葉との別れを惜しんでいるかのようでもある。「大漁」の中にたたずむ少女は、「種」を守るためのリスクに散っていく命を思いやっているのかもしれない。食物連鎖の頂点に君臨する人類は、もはや「種」の保存ではなく、異常なまでに「個」の保存に心血を注いでいる。その人類が、巻き網で何十トンものイワシを一網打尽にしている。そんなところに金子みすゞの「イワシのとむらい」という悲しみがある。「生命(いのち)の無常と輝き」展でそんな事を想いながら、作品の前にたたずんでいた。


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2012年秋・耶馬渓の紅葉