野村望東尼
(のむら ぼうとうに)
随筆のページへ

トップページへ

File No.121003

野村望東尼(のむら ぼうとうに1806〜1867)という幕末の動乱に身を投じた人物を知っているだろうか。広辞苑にはこう載っている。『幕末の歌人・勤王家。本名、もと。福岡藩士野村貞貫の後妻。夫に死別後、剃髪。和歌を大隈言道に学び、歌集「向陵集」がある。高杉晋作・平野国臣・西郷隆盛と交友、庇護し、藩により姫島に流罪』。と広辞苑はここまでだが、この1年後、高杉晋作の命により姫島から救出される。脱出後下関に上陸し、長州各地を転々とし、最後は明治維新を見ることなく62才で病気で亡くなっている。今回、その流罪になった地"姫島"に行ってきた。糸島市の岐志から、市営渡船「ひめしま」で16分で行ける。姫島には、望東尼が流罪になった時、幽閉されていた場所には、お堂や若干の資料、歌碑、銅像などが作られている。他に観光地的なところはないが、島から眺める周囲の景色がすばらしい。また島に流れるゆったりとした時間を楽しむのもいい。

糸島市営渡船「ひめしま」

望東尼は、加藤司書ら4人とともに、福岡藩に捕らえられる。加藤ら4人は死罪となり切腹する。望東尼もこのことを聞き、当然死罪であろうと覚悟を決める。死罪なら死罪で、早く沙汰が下ってほしいと思いながら沙汰を待つ。その心の中はいかばかりだったろうか。望東尼は「露のたまも朝には散ぬべし、暫ばしも堪へぬ心地して、たゞ彼岸にのみひた道急がるゝはかなさ」と記している。しかし、福岡藩が望東尼へ下した処分は、「格別之御慈悲を以姫嶋流罪牢居被仰付候事」だった。特別の慈悲を以って姫島に流罪としたのである。その判断をした福岡藩の事情は定かではないが一説によると、幕府の意向に従って大獄となったが、一時に多くの人を殺すのは先例もなく、藩の評判にも関わる。望東尼にあっては罪状は重くても、60歳の女性を殺しては世間の噂も厳しいものになるという配慮が働いたのではないかとも言われている。


野村望東尼の旧跡

望東尼の資料と獄中歌

姫島に流罪になったのは、厳しい冬に向かう10月だった。姫島は流罪の島として、藩の馬廻組の藩士が任に就いていた。罪の軽い流人は、自由に島の中で生活をしていたが、重罪人の望東尼には厳しかった。姫島にすでにあった獄舎へ幽閉される。ここは灯りもなく、縦1間半、横2間で座るところは4畳のみ、畳みもなく板敷だった。厳しい冬を迎え60歳の女性の身にはあまりにも過酷な環境である。旧跡には望東尼が詠んだ歌の石碑がたっている。「す(住)みそむる ひとや(囚屋)のやみ(闇)にともしびも なみの音いかにきゝあかさまし」。この過酷な環境に耐えて一年、いよいよ、その時がくる。
これから繰り広げられる救出劇は実にドラマチックである。

姫島全景

姫島夕景

高杉晋作の命により、藤四郎ら一行6人が対馬領浜崎(唐津海道)に到着する。表向きは薩摩の藩士と言って、ここで5〜6日滞在する。さて慶応2年(1866)9月16日午後3時ごろ、武装した一行は姫島に乗りこむ。藤は多田を従え、島の定番役・阪田のもとへ向かう。小藤は権藤、泉を連れて望東尼救出に向かう。吉野は役宅と獄舎の間に立ち両方の連絡を絶った。藤は一通の文書を取り出し、これは朝廷からの通達であると阪田に差し出す。その内容は、望東尼の身柄を引き渡せというものだった。阪田はこれを見るまでもなく、偽造であることを見抜いていた。しかし一応目を通し、たとえ朝廷からのご赦免であっても、自分の職責としては大目付の通達がなければ引き渡せないと反論する。

二人の間で押し問答をしている間に、望東尼救出は着々と進んでいた。ところが、望東尼は一年もの間幽閉されていたため、歩くこともままならない状態だった。権藤と小藤に抱きかかえられるように浜辺へ急いだ。首尾よく望東尼が船に乗り込んだところで、見張り番の吉野は銃を一発放つ。これは藤たちへの救出成功の合図だった。これを聞いた藤は、それでは福岡藩に掛け合うと言って阪田宅を辞する。一行6人は船に乗り込み、陸上から望東尼が見えないように幕を張り沖に向かって漕ぎだした。

牢獄が破られたとの報告を受けた阪田は、追跡しようとするが、銃を持ち完全武装の一行に対し、銃声に腰を抜かすくらいの下役たちでは如何ともしがたい状態だった。そこで阪田は船で一行を追跡させる。ところが、藤一行が向かった方向へ、乗り出してはみたものの、日が暮れて引き返してくる。これは、藤たちの想定内のことだった。しかも、向った方向も壱岐の方向だったが、実際に向かおうとした方向とは全く違っていた。一行は追跡をかわした後、下関へ向かった。

この報告を受けた福岡藩は、大騒ぎである。藩の評議は紛糾する。姫島の牢が破られ、望東尼を奪還されたということは、枡木屋(ますごや)の牢獄も極めて危険ということになった。ここに捕われている勤王の志士たちを急きょ福岡城内に移す。警備を厳重にし、一時は手錠足かせまでする念の入れようだった。面目をつぶされた福岡藩は怒り心頭である。報告を受け、八つ裂きにしても飽き足らない藤や望東尼らの捜索を即日始める。しかし、転々とする望東尼らを発見することはできなかった。時は防長が勢いを増している時である。関門海峡を掌握され、大阪との交通を遮断されては、藩の財政もままならなくなってくる。福岡藩は涙を呑んで防長との関係を改善するに至ったのである。


随筆のページへ トップページへ