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File No.120412

コップを置く音、犬の鳴き声、電話の音、外に出ると笑い声、風の音、ジョージ(ジャン・デュジャルダン)の周りに音があふれている。ジョージの声だけが聞こえない。そんな中、空から舞い降りてきた一枚の羽毛が地面に落ちる。思いもよらない耳をつんざく爆発音。ジョージが夢から覚める。ダンスを踊ったあとの二人の荒い息遣いも象徴的だった。バック(?)に流れる音楽もまた効果的である。シーンに合わせた音楽が感情をより増幅させ、セリフはほんの少しのインタータイトル(挿入字幕)だけだ。サイレント映画というものをはじめて観た。今年のアカデミー賞で作品賞・監督賞など5部門を制した映画「アーティスト」である。サイレント映画と言っても、あくまでも現代のサイレント映画という作りである。往年のハリウッドを舞台にした映画だが、フランス映画である。サイレントからトーキーへ移り変わる時代を背景に、上質のラブロマンスが描かれている。


1927年、サイレント映画の大スター・ジョージ(ジャン・デュジャルダン)は、熱狂するファンに囲まれている。ひとりの女性が、偶然を装って(?)ジョージの横へ並び、頬にキスをする。「この娘は誰だ?」。翌日の新聞の一面を飾る。彼女はスターを夢見るペピー(ベレニス・ベジョ)だった。ここはキノグラフ映画社。「エキストラはオーディションの前に登録を。きょうはダンスが出来る人3人だ」。ペピーは何とか合格する。そこに大スター・ジョージがスタジオ入りする。スクリーン越しにタップダンスを練習するペピー。それに合わせて踊るジョージ。スクリーンが外され、二人が出会う。ジョージの部屋を訪れたペピーに「女優を目指すなら、目立つ特徴がないと」とジョージが、ホクロを描いてやる。1929年、トーキー映画の勢いにのって人気のペピー。一方、サイレント映画の凋落とともに忘れ去られていくジョージ。しかし、ペピーの深い愛がジョージをよみがえらせる。


日見子はダンスが踊れることもあって、若い時からフレッド・アステアのファンだった。ジョージとペピーのダンスシーンは、往年のフレッド・アステアを思い出させる。今回の「アーティスト」は、どことなく「バンド・ワゴン」を思わせる。以前、通販で「バンド・ワゴン」のビデオを買ったが、大事になおし過ぎて出てこなかった。ただ「イースター・パレード」と「踊る結婚式」はあったので、あらためて観てみた。いづれのダンスシーンも見事だ。特に「踊る結婚式」で冒頭、リタ・ヘイワースがわざと間違えて、アステアに教えを請うシーン。ここで二人が踊るタップダンスは、今回の映画で二人が踊るダンスを彷彿とさせる。「イースター・パレード」の最初でアステアが見せる、店にある楽器などを使って踊るダンスは見事というほかない。アステアならではである。日見子は「フレッド・アステアのダンスは、技術だけじゃないのよ。気品があるのよ」と言っていた。


はたしてセリフのない映画で、どれほど登場人物の細やかな心の機微が伝わってくるのだろうか。しかし、その心配は見事に裏切られる。声がないが故に、映像が多くを語りかけてくる。ハンガーにかかったジョージの服の袖に手を通し、自分を抱きしめるペピー。炎に包まれた失意のジョージが、抱きしめていた一本のフィルム。いたるところにジョージとペピーのあふれんばかりの思いがちりばめられている。最近の私は、五感を研ぎ澄まして映画を感じ取っているだろうか。この映画を観ていると、CGで作り上げられた大スペクタクルに圧倒されている自分に、そんな問いかけをしたくなる。"目は口ほどにものを言う"。ミシェル・アザナヴィシウス監督は「サイレント映画にはセリフがない。観客は生きた感情を心で感じる。そんな経験を贈りたかった」と言う。シンプルなストーリー展開と、余計なものを排除した表現は、観る側の豊かな想像力を引き出してくれた。



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映画「アーティスト」

2012/04公開/フランス映画
白黒スタンダード/101分

監督:ミシェル・アザナヴィシウス
出演:ジャン・デュジャルダン 、 ベレニス・ベジョ

第84回米アカデミー賞 5部門受賞
作品賞/監督賞/主演男優賞
衣装デザイン賞/作曲賞

フレッド・アステア主演映画の
DVD「踊る結婚式」と
ビデオ「イースター・パレード」

「映画百年 映画はこうしてはじまった」

1997年5月15日 初版第1刷発行
編集:読売新聞文化部
発行:キネマ旬報社

この中に「無声からトーキーへ」という頁がある。日本にトーキー映画が入ってきたのは1927年(昭和2年)ころである。今回の映画の時代背景と同じ時期に日本にもトーキーが入ってきている。そのころ制作に携わった人が「開発されたばかりで、音と映像を同調させるのが大変。雑音も多くて苦労しました」と話す。また、防音対策で、静かになる夜8時ころから早朝5時ごろまで撮影したという。制作側のそんな苦労がある一方で、映画館で楽士や弁士が失業した。1932年(昭和7年)にはトーキー化に反対する楽士や弁士たちが、神田日活館を占拠し、警察官と大乱闘になり、重軽傷者を多数出したという。