「匂い」について 随筆のページへ

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File No.111004

先日のテレビで、藤あや子・坂本冬美コンビが、函館を食べ歩くという番組が放映された。この企画は過去にも何度かあったが、相変わらず高視聴率を取っている。今回、洋食屋さんに行った時のこと、入口で藤あや子さんが「ほら、いい匂いしてきた!」と言うと、安住アナが坂本冬美ちゃんに「匂いします?しないですよね」と同意を求めた。冬美ちゃんもきっぱり「しない」と否定。藤さんは「鼻が利かない二人だね。臭覚!臭覚!もっと敏感に」。安住アナが「嗅覚」と言うと、藤さん「どっちでもいいでしょ」と洋食屋に入って行った。辞書で調べてみると、確かに安住アナの「嗅覚(きゅうかく)」が正しい。しかし「臭覚(しゅうかく)」というのもちゃんと載っていて、その意味は"嗅覚に同じ"となっている。安住アナは職業柄、言葉使いには厳しいのだろうが、「臭覚」というのもあながち間違いではない。ところで、こういう風にテレビでは「グルメ」番組をよく放映する。当然「匂い」は一切伝わらない。つまり、見ている我々は「パブロフの犬」状態ということだろうか。

今年はえらく順調に秋が来ている。身体の準備がまだ充分できていないせいか、先日風邪をひいてしまった。熱は38度前後と、一般的には大したことのない熱だが、いかんせん私は熱に弱い。38度でもかなりこたえる。幸い熱は二日ほどで引いたが、「匂い」が全くなくなってしまった。この「匂い」の無い世界というのは、実に味気ないものである。毎朝の習慣のコーヒーは、単に苦いお湯である。食事となるとさらにひどい。"砂を噛むよう"とはこのことである。モノクロの写真だと、色彩はないが、かえって深い味わいが出る。ところが嗅覚は深刻である。食事どころか、水さえもうまくない。こういう時に摂った栄養は、脳で感じないから体に吸収されたような気がしない。生活に潤いがなくなり、まるで罰ゲームである。考えてみると「匂い」というのは不思議なものである。匂いの種類は何百、何千とあるだろう。これをどういうメカニズムで、判断しているのだろうか。一週間後、匂いが戻ったときは感動した。

万葉集で大海人皇子が額田王を詠んだ歌に「紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 我恋ひめやも」というのがある。ここで使われている"にほへる"は、単なるフレーバーではない。"輝くような美しさ"を意味している。万葉集に出てくる"にほふ"という言葉は、だいたい同じような意味で使われている。大伴家持の歌で「なでしこが 花見るごとに 娘子らが 笑まひのにほひ 思ほゆるかも」や「春の園 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ娘子」というのも、やはり生き生きとした女性の美しさを詠んでいる。文字通り「にほふがごとく 今盛りなり」である。額田王のほうは納得だが、坂上大嬢はそんなに美しかったのだろうか。万葉集で使われている"にほふ"は、言ってみれば生命の維持に欠かせない"フェロモン"を意味しているとも言える。生命の輝きを"にほふ"という言葉で表現した万葉の歌人たちは、実にすばらしい。

五感のうちのひとつ「匂い」を嗅ぎわける能力というのは、動物には非常に重要なことである。鼻で嗅ぎわけているのは、哺乳類だけではない。魚、鳥、昆虫や虫といったものにも嗅覚の器官がある。それも、ほぼ同じ設計になっている。視覚、聴覚、嗅覚、味覚が頭部に集中している。ヒトを含むほとんどの動物は、約5〜6億年前、海の底をゆっくり動きだした生命体の設計をほぼそのまま引き継いでる。犬でも熊でも鹿でも、人間のメガネをかけようと思えばかけられる。それは危機管理と生命維持のために、実に合理的な設計だったのである。虫たちの嗅覚は、甘い蜜の匂いに吸い寄せられ、命をつなぐ一方で、植物の種の保存に一役買っている。猫は必ず匂いを嗅いで、自分にとって危険かどうかを判断している。一方人間だが、最近はフレグランスにはずいぶん敏感だが、動物本来のフレーバーを嗅ぎ分ける危機管理能力は退化しはじめている。パックされた食品には、消費期限が書いてあり、自分で判断することはない。話しは元に戻るが、ひょっとすると、藤あや子さんの嗅覚はいまだ鋭敏で、あの時本当に"匂い"を感じ取ったのかもしれない?


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