映画「大鹿村騒動記」を観て
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曲がりくねった山道をバスが走って行く。ラジオは台風接近のニュースを伝えている。トンネルを抜けるとそこは大自然に抱かれた美しい村「大鹿村」だ。バスから何やら怪しげな男と女が降り立った。それは善(原田芳雄)の幼なじみ、治(岸部一徳)と、善の妻、貴子(大楠道代)だった。18年前に駆け落ちした二人が突然戻ってきたのだ。そんなこととは知らず善は、ひしゃくを片手に歌舞伎の稽古に余念がない。「ごめん、善ちゃんどうしようもなくて返す。俺のこと善ちゃんって言うんだ」。貴子は認知症になっていた。正気と痴呆の間を行ったり来たりしている貴子だった。詫びる治に「返すんだったら、元の貴子のまま返せ」とつかみ掛る善。それでも善は、二人を受け入れ泊めてやる。善の食堂「ディア・イーター」で昔のように働きだした貴子だが、時々認知症が襲う。冷蔵庫に頭を突っ込んでものを食べたり、ゆでてないパスタ、果ては蚊取り線香まで口に入れようとする。大鹿歌舞伎を目の前にして、善の心は折れそうになる。

大鹿村の歌舞伎は、300余年の歴史がある。村の人たちが、絶やすことなく守り続けてきた貴重な無形文化財である。この映画は、その伝統芸能の見事さに魅せられた原田芳雄さんの持ち込み企画で作られた。当然映画の中では、その伝統の大鹿歌舞伎が演じられる。その外題は「六千両後日文章 重忠館の段」という大鹿村だけで演じられている芝居である。映画を観ていて、この大鹿歌舞伎だけ、別の機会に楽しんでみたいと思った。それほど俳優さんたちの気持ちの入った芝居が演じられている。それはすなわち、300年という激しい時代の波をくぐりぬけ、守ってきた村人たちの“ひたむきな心”でもある。伝統芸能を維持し続けることは並大抵なことではない。映画の中でも、「300年の責任が取れるのかよ。おめえの方がうめえ」と説得するシーンがある。無形文化財の重要性は、すなわち伝承、保存の難しさの裏返しでもある。大鹿村では中学校に「歌舞伎クラブ」があり、大鹿歌舞伎保存会の人が指導し後継者が育っているという。

数年前、テレビで「歌舞伎が伝わる村」という番組が放映されたことがある。その村は「尾瀬」近くにある檜枝岐村(ひのえまたむら)という村だった。ここの歌舞伎もまた260年の歴史をもつ無形文化財である。江戸時代、伊勢参りや出稼ぎに出た村人が、楽しみにと始めたものだという。ここもまた、後継者づくりが課題で、すでに義太夫を語れる人はいなくなっている。檜枝岐歌舞伎を演じる人たちに言い継がれてきた言葉がある。「一、口上 二、眼 三、振り」である。「口上」はセリフをしっかり憶え、しっかりしたセリフを聞かせる。観る人たちを喜ばせたり、泣かせたりするのがセリフ。「眼」は、しっかり目を見開いて表情をつくる。目の置きどころがフラフラしないこと。「振り」は義太夫に合わせた踊り。そして、素人で、みんな仕事を持っているから、それぞれ上手にやるというよりは、まず一所懸命やるということだという。ここの村でもまた、一所懸命稽古して、一所懸命演じて、神様に奉納し、村人の楽しみのために受け継がれてきたのだ。

幼なじみと、愛する妻の、夢にも思わなかった裏切りへの悔しさと怒り。グチをこぼそうにも、その相手がいなくなったさびしさ。18年前、貴子から送られてきた離婚届けはまだ出していない。その二人が帰ってきたのだ。善の心には、怒り、悲しみ、さびしさ、不安、そして心のどこかで帰りを待っていた自分といった相反する気持ちが一気に渦巻き絡み合う。半分泣きながら治に掴みかかるときの原田芳雄さんの演技が見事である。持論が「人生すべからく喜劇」という原田芳雄さんが、つくりたい映画を作った。それならばと多くの大物俳優たちが集まった。しっかりした演技の俳優さんたちが、本当に作りたい映画を作ったのだ。映画界にはいろいろな映画があっていい。しかし、そのベースには、役者と役者がぶつかりあい、ユーモアとペーソスを描きだすようなしっかりした映画が必要だ。大鹿歌舞伎が芸能の原点であるならば、この映画には、映画づくりの原点がある。1000円という料金は、一人でも多くの映画ファンに良質の映画を楽しんでもらいたいという心の表れであろう。


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「大鹿村騒動記」
2011/07公開 /93分
監督: 阪本順治
出演: 原田芳雄、大楠道代、岸部一徳
三国連太郎、佐藤浩市、松たか子、瑛太
石橋蓮司、小倉一郎、小野武彦
冨浦智嗣、でんでん、加藤虎ノ助

2012/03/04 原田芳雄さん「最優秀主演男優賞」に輝く!!
2012/03/02に第35回日本アカデミー賞の授賞式が行われた。「八日目の蝉」が最優秀主演女優賞以下10部門で受賞し他を圧倒する中、原田芳雄さんが最優秀主演男優賞に輝いた。故人が最優秀主演男優賞を獲得したのは史上初だという。共演者の岸部一徳さんは「普段は優しいんですけど、一緒にやると怖いんですよね。真剣勝負みたいなものが迫って来るんで、今度の撮影は充実していました」と話した。
受賞は娘さんの原田麻由さんが代理受賞し、大鹿村やスタッフ、共演者、映画を観てくれた人たちに感謝言葉を述べた。また「・・・映画館は宝箱だからと申しておりました・・・」と映画に対する原田芳雄さんの思いも披露された。

2011/07/20 原田芳雄さん死去
実に残念である。
「大鹿村騒動記」の舞台挨拶で見せた姿が最後になった。その時のメーッセージは「今日はどうもありがとうございます。どうぞごゆっくりご覧ください」だった。このシンプルな言葉の中に、映画人としての思いの全てが凝縮されている。「大鹿村騒動記」が完成したとき原田さんはこう言っていた。「早くしないと俺もう時間がないから。早くやってよっていうのがあったんですね。そしたら思うより早く実現しましたね」。原田芳雄さんという俳優を表現するキーワードは「存在感」である。その圧倒的な存在感で、映画界に君臨してきた。最後の舞台挨拶は、ドクターストップを押し切ってのことだったという。恐らく覚悟をもって臨んだと思われる。彼にとっての舞台挨拶は、映画俳優として、一世一代の大見得を切ったということなのかもしれない。俳優として、しっかり締めくくって舞台をおりたのである。見事な人生である。
心からご冥福をお祈りします。
[原田芳雄さんの略歴](WEBより)  
 本名同じ。1940年(昭15)2月29日、東京生まれ。高校中退後、63年に俳優座養成所入り。68年「復讐の歌が聞こえる」で映画デビュー。71年に俳優座を退団。76年「祭りの準備」「田園に死す」でブルーリボン助演男優賞、89年「どついたるねん」で映画各賞を受賞。90年「浪人街」「われ撃つ用意あり」と92年「寝盗られ宗介」でいずれも日刊スポーツ映画大賞主演男優賞。これまでに「竜馬暗殺」「ツィゴイネルワイゼン」「陽炎座」など数多くの話題作に出演。03年に紫綬褒章を受章。195センチ。A型。



私が撮った写真の中から「古典芸能の後継者」をテーマに2枚選んでみた
福井神楽(福岡県糸島市二丈町)

毎年5月、福井白山神社大祭で奉納される。ここの神楽も舞手不足から一時中断したようだが、福井区民約200世帯が、昭和48年の福井神楽保存会を結成し、現在22名の神楽師が受け継いでいるという。


今津人形芝居(福岡市西区今津)

昭和30年代ごろ一時衰退したが、数名の経験者が存続に情熱を燃やし、現在では子供会を中心に指導がなされ、後継者が育っているという。