雷山川下流の歴史 (福岡県糸島市・二級河川) |
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5万分の1の地形図を何となく眺めていて気付いた。青○で囲った部分(BとC付近)の雷山川の流れがほぼ直角に曲がっている。これは自然の流れとは明らかに違う。この付近の地名を見ると「新田」となっている。これは調べてみれば、興味深い歴史に出会えるかもしれないという訳で、地形図を片手に雷山川下流域を歩き、図書館でその歴史を調べてみた。題して「秋元君の秋休み自由研究」。 |
右の地図は、2006年8月「伊都歴史博物館」の講座「伊都国誕生物語」の資料に載っていたものである。赤の線で囲ったところは「外来系遺物集中ゾーン」となっている。弥生時代、伊都国が、日本の外交・交易の窓口として栄えていたことが伺える。当時は、加布里湾が大きく志登(しと)付近まで入り込んでいた。志登には支石墓群がある。雷山川の流れは、この志登で海に注いでいた。それは「慶長年間の筑前国図」にもはっきり描かれている。 |
(写真1)志登 |
(写真2)泊 |
泊(とまり)や浦志(うらし)について、昭和2年の「糸島郡誌」にはこう書いてある。「・・・昔の入海より向に泊村あり。是昔海の入江にて船の泊し所にて、唐舟をも爰につなぎしと云。田の字にも浦の字付したる名多し。又前に浦志村有。是又海邊に在し故に名付しならん。此入海成し所の田の底を返せば今も牡蠣などのから多し。・・・」。 |
写真でも分かる通り、新田で雷山川は、大きく曲がる。 「前原町誌」(平成3年)によれば「慶長5年(1600)黒田長政は、豊前中津領主から、筑前30万石の領主に任ぜられた。翌6年から領内の検地をして石高を増やし、幕府へ52万石と報告した。年貢高を割り当てた。さらに各地で干拓や開墾をさせて耕地の増加に努めた。・・・元和4年(1618)新田開、福岡藩飯氏駐在の菅和泉(いづみ)が長政の命で前原潟を干拓して「新田村」ができる」。昭和16年の「前原町誌」には「・・・長政の家臣菅和泉正利といふのがその事業を掌つたから、雷山川の中、この地方を和泉川と云うのである」 |
(写真3)新田開 |
(写真4)新田開 (写真5)元禄開(元禄10年) |
「新修・志摩町史」(平成21年発行)に記載されている干拓地の一部を抜き出してみた。 尚、同史によれば「築造された新田のことを、福岡藩領では“開(ひらき)”という」
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「志摩町史」(昭和47年発行)に「嘉永開(寺山)」の干拓の様子が生き生きと書かれている。 「・・・堤防築きが80余間を残すだけにはかどり、そこからだけが潮の出入りができていたのを、大潮がひいて今度満ち潮のよせてくる間の短時間に一気に石垣を積み上げ土を打ち固めるのであるから、工事の計画と実施が寸分の隙も許されない。9月5日の夜もあけやらぬ朝まだき、たいまつは各所に燃えさかっている。太鼓の合図で作業開始。40何か村の人夫が合わせて4千人それぞれ村庄屋の指図のもとに村の旗を押し立てて石運びから土運びで積立て打ち固め、隣村との連携協力まで緊張の一夜であった。・・・」工事現場は太鼓と半鐘、法螺貝などの合図で「戦場のような光景であった」という。 「新修・志摩町史」には「・・・堤防全体を29の丁場に分割し、それぞれを原則として村単位で担当する責任丁場制がとられていた。工事の遅れや、施工の不具合がでると、村全体の責任として厳しく追及される。・・・」と記されている。村の名誉をかけて、必死だった様子が伺われる。 |
←(写真6)千早新田 「新修・志摩町史」には「幕領千早新田」についても書かれている。「千早新田は、長野川河口干潟に開発された干拓地である。天保3年、時の日田代官・塩谷大四郎の命により、加布里村の末松政右衛門と岩本村の牛原藤蔵が開主となって起工し、翌年竣工した。・・・表面上は民間プロジェクトであったが、塩谷代官の実質的な見立新田にほかならず・・・」 |
昭和16年の「前原町誌」には「・・・天領の新地域を造るのであるから相当権柄(けんぺい)押しに押し進んだ情況が覗われる」とある。証文の中にも「大切の御用普請に付き4月5月農業最中に差し向い候とも・・・」というのもあり、「余程日田代官の権柄を振り回した有様が覗われる」としている。 |
今回、このテーマを調べるには実にいい時期だった。秋晴れの澄んだ青空の下、実りの秋で稲穂が黄金に輝いていた。先人の残してくれた豊かな実りをこんな言葉で締めくくろう。
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雷山川(泉川)河口 |
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2015/04/04 「嘉永5年寺山干拓潮止図」糸島市指定文化財に | |
糸島市教育委員会は、「嘉永5年寺山干拓潮止図」を市の文化財に指定した。これは江戸時代(1852年)に行なわれた、雷山川下流の干拓の模様を描写した絵図である。報道によれば、干拓の模様を視覚的に描いた絵図は九州では例がないという。 |