もうすぐ母の七回忌 随筆のページへ

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File No.100223

天の川銀河の中心には、巨大なブラックホールがあり、太陽系の中心には我々の生命の元である太陽がある。物質を構成する最小単位「原子」の中心には「原子核」があり、生物の最小単位である「細胞」の中心にもやはり「核」がある。その「核」の中には、守り続けてきた遺伝情報「DNA」があり、その「核」によって生命は支配されている。その細胞が作り上げた一個体として我々人間がある。そのセオリーからいくと、一個体としての人間にも、それを支配している中心となるものがあるはずだ。それは、肉体としての中心に「心臓」があるように、人間としての中心には「魂」がある。以前、私は『死の瞬間に「魂」と「身体」のどっちが主導権を握っているかが分かるのではないか』と書いたことがある。結局のところ、魂は現世に現れるための拠り所として細胞を必要とし、遡れば「魂」が生まれる"ゆりかご"であったのは細胞である。「魂」は、どの世においても波長の合う「DNA」を見つけて、そこを拠り所としているのではなかろうか。つまり、どちらが主導権を握るということではなく、お互いが魅かれあった結果と言えそうだ。


邪馬台国の時代の人口を、仮に300万人としよう。そうすると、それからでさえ約40倍にはなっている。日本だけでも1億2千万は増えている。つまり魂は、過去の「魂」が新しい身体に融合するだけでなく、次々と新しく生まれ出ている。元々人類は、アフリカの一握りの祖先から全世界に広がっていった訳だから、68億の魂が生まれ出たということになる。素粒子は「無の空間」から生み出される。「無の空間」を満たす「場」のエネルギーが集中した部分から素粒子が生まれる。我々の存在する宇宙もまた137億年前に生まれ出たひとつの時空の状態である。「魂」もこの世に「生」を受けると同時に、脳内を満たす「場」のエネルギーの一瞬の集中で生まれ出るのではないだろうか。「魂」という小宇宙が我々の体内で生み出されるのである。その「魂」は「死」によって肉体を離れる。その「魂」が次の世に現れたとき、前世の記憶がないのは、恐らく現世を離れるときに、リセットしているのではないかと思う。つまり、「死」の直前に走馬燈のように、辿ってきた人生の記憶が現れるのは、初期化する前の儀式なのである。


2009年度の「科学を語る会」の統一テーマ「始まりを知る」で、その第一回のテーマは「生命の始まり」だった。その時、生命の始まりを次のように定義された。「物質の集団によって成り立っている生物は、生物のない状態で自然発生的に集合した物質集団のあるものが、生命という現象を司る仕組みを獲得したことによって誕生した」と。「生の状態」を定義すれば「死の状態」も定義しなければならない。これが結構難しい問題だそうだ。生命が物質集団を離れ、単なる物質集団になる時点を確定させなくてはならない。人間なら60兆個の細胞が複雑に絡み合っている。どの反応が停止したら「死」と判断するかである。「臓器移植法」では「脳死を人の死」とし、その定義は「脳幹を含む脳全体の機能の不可逆的な停止」となっている。「科学を語る会」では、「死の状態」とは、「生体を構成していた物質集団のエントロピーの動きが客観的自然界のエントロピーの動きと等しい状態」とのことだった。このエントロピーとは「物質の状態について定めた変数のひとつ」と言うが、学問というのは何やらややこしい。


母の七回忌法要の打ち合わせをした。時が過ぎるのは速い。あれからもう6年が経つ。来世に旅立った母は今、どんな波長の合う人物を拠り所としているのだろうか。相変わらず忙しい毎日を、エネルギッシュに送っているに違いない。考えてみると、あの母を御していた父もまた偉かった。御している風を微塵も見せなかったところがすごい。釣りが好きで、しょっちゅう出かけていた。町では釣りの名人として名を馳せていた。魚が釣れ過ぎると、魚屋に売りに行っていたくらいだ。私に釣りの極意を伝授したかったようだが、私があまり興味を示さなかったのであきらめたようだ。商売の方は母に任せっきりで、一見気にしている様子などないように見えた。しかし、年に一回、一年分の商品を大阪の問屋に行って直接仕入れてきていた。つまり、年間の販売量や売れ筋商品、大阪の新しい流れを読んで的確な仕入をするなど、商売の根本的なものはちゃんと抑えていたのである。「一年を十日で暮らすいい男」だったわけだ。父と母はいいコンビだったと言える。こんど、釣りにでも行ってみようかな。

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(注)この随筆は、何の宗教的な意味も、深い科学に裏付けられたものでもありません。単に素人の独り言として、読み流してください。


2009・12・09 「・・・・その即応態勢が鍵を握っている軍の艦船が、日本に寄港するからと言って、わざわざアメリカ領で核兵器を下ろして、立ち寄るなどあるわけがない。・・・・日本が給油した油だから、行く先が制約されるなど、常に臨戦態勢にある艦船にはありえない話である。素人の私が考えてもわかることだ。ことほど左様に、日本では建前が幅をきかす。
2010/02/19 「社民党は、国民新党案(辺野古陸上案)を「いかがなものか」と批判はするものの、自分たちの方針は決定できず先送りするらしい。だいたい理想を声高に言う輩は、具体的な方策はないに等しかったり、あっても現実とはかけ離れたりしているものだ。だから、よく聞くと現実に立脚していないので、すぐに理論が破たんする。高い理想を言うことで、自分自身に自分が酔っているだけのことである。

2010・02・24
 過日私は、上記のように書いたが、今日の西日本新聞の随筆「非社交的社交性」(哲学者・中島義道氏)で“善意という暴力”と題してこんなことが書いてあった。

「・・・・どこをとっても間違いはない。しかし、なぜか不快感がじわじわ体内に広がったのである。なぜだろう、と詮索するに、すべてがあまりにも「よすぎる」ことに、私は「うそ」を感じてしまったのであろう。・・・・そこには、善意によって人々を支配しようとする暴力を感ずるからかもしれない。・・・・・「善意だらけ」の状態を演技と知っているうちはいいのだ。だが、善意の演技はいつの間にか当人を酔わせ、真実を見えなくさせる。そして、真実を語る人を排斥することになるのである。
学問を極めた人というのは、実にうまく表現するものだ。私が言いたかったのは、まさにこういうことなのだ。


日曜大工?

洗面台と洗濯機の間に、中途半端なスペースがあり、デッドスペースになっていた。ここを何とかしようと、いろいろなラックを見て回った。ところが既成のラックでは、幅がよければ高さが合わずと「帯に短したすきに長し」状態で、これといったものが見つからなかった。そんなとき、ホームセンターの折り込み広告に、支柱と棚板を自由に組み合わせて、オリジナルの棚が作れると載っていた。早速、買いに行った。棚板は、我が家のスペースに合わせて、ホームセンターの巨大なマシーンでカットしてもらった。後は、釘を打つだけである。それも打つ場所は、支柱側に穴が開けてあるので、本当にただただ打ち込むだけだった。実に簡単に、デッドスペースにぴったりの棚ができ上がった。白木で手作り感があって実に見栄えがよい。それより(そんなに簡単にできたとも知らず)「あら、やるじゃない」という一言で、何だかはまりそうな雰囲気である。