映画「劔岳・点の記」を観て
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 この映画は100年前、日本地図の最後の空白を埋め、完成させるために命をかけた男たちの物語である。軍部は、日露戦争に圧勝した後、諸外国の動きから「我が国の国防を万全にし、日本地図を完璧なものにしなければならない」と空白になっている劔岳(つるぎだけ)の測量を命じる。当時、日本の登山技術は「測量」が育てた、と言われていたようだが、前人未踏の劔岳。頂上の手前は、ほぼ垂直の壁である。しかも、ただ登るだけではない。測量のための重い資材を運び、三角点を設置しなければならない。圧倒的な自然の力の前にひれ伏してしまうのか、翻弄されながらも、使命を全うするのか。か弱い人間が、自然の威力に立ち向かうには、研ぎ澄まされた動物的勘と、挑戦する強い意志が必要である。「地図をつくるというのは、生まれた場所、生きている場所がどんな所かを知り、自分が何者であるかを知るためだ」という強い使命感が心を支える。私たちは、今あらゆる種類の地図を、簡単に手にすることができる。これもすべては、江戸時代の伊能忠敬にはじまり、明治時代の柴崎芳太郎たちまで、命をかけてつくりあげてきた日本地図があったからこそである。

 明治39年、陸軍参謀本部。測量手・柴崎芳太郎(浅野忠信)は「陸軍の威信をかけた劔岳の初登頂と測量」を命じられる。時を同じくして、欧米の最新装備を取り入れた「山岳会」が劔岳の初登頂を目指していた。軍部としては、日本地図最後の地点が"はじめての測量"でなければならない。新聞は「陥落せしむるは、陸軍か山岳会か」と煽る。山岳会に先を越されては陸軍の恥。もはや後へは引けない陸軍測量部。難攻不落の山を征服するには、すぐれた案内人がいる。前任者が全幅の信頼を寄せていた案内人・宇治長次郎(香川照之)が紹介される。調査のため登山した柴崎は、生半可な山ではないことを知る。翌明治40年、いよいよ測量のため登山開始。決して無理してはいけない。しかし、無理すべき時は決断しなければ、地図を完成させることはできない。次々と襲いかかる自然の脅威とかかわり合いながらも、測量隊は三角点をつくっていく。山岳会のメンバーも、同じ山を目指す仲間として、そのひた向きな測量隊の姿に敬意を払う。さて必要な27の三角点はつくれるのか。無事日本地図は完成するのか。

 地図と言えば、私は、高校時代に使っていた「新詳高等地図」(六訂版・昭和36年1月発行)をいまだに持っている。50年近くも経つと、さすがに背中は剥がれ、かなり傷んではいるが現役である。今、地図の雑誌で「地図中心」という月刊誌が発売されている。この雑誌の通巻419号(2007年8月号)に「学校地図帳」という特集記事が組まれている。この中に大平原寛さんが「地図帳に託す思い」として寄稿されているが、まさに歴代の「新詳高等地図」への思いが述べられている。大平原さんは「我々の目指す最終目標は、地図帳を手にした若者が、将来的に本誌読者のような地図のある豊かな生活を送ってもらいたい、この一心にあります」と結んでいる。私の「新詳高等地図」の75頁に載っている北極海を中心に描かれた図取りを見れば、今まさに温暖化で北極海の氷が溶けたことによる、"北極航路"の管理をめぐる争い、北極圏の資源開発の権利をめぐる熾烈な争いの構図も一瞬にして理解できる。何らかの問題意識をもって地図を開いたとき、「百聞は一見にしかず」、そこに時代が要求する地図がある。大平原さんの言う「地図のある豊かな生活」とはそういうことではないかと、私なりに解釈した。

「自然の美しさは厳しさの中にしかない」。映画は、四季折々の景色を存分に観せてくれる。色鮮やかな山の斜面の紅葉。一面に広がる赤く染まった雲海。茜色の空を背景にした富士山頂。一転して、襲いかかるなだれ、荒れ狂う吹雪や雨風に身を伏せ、身体を寄せ合いただ鎮まるのを待つしかない荒らぶる神の山。岩壁からの滑落や不気味に口をあける雪渓。キャメラマンとしての監督のこだわりが、一切のCGや空撮を許さず、すべて人間の目線で撮っている。自然の厳しさと美しさ、その中で戦う生身の人間の姿をリアルに表現する。2年の歳月をかけ、目まぐるしく変わる自然を相手に順撮りしたというから、そのこだわりは半端ではない。出演者たちは、実際に山に登り、100年前の測量手と同じ過酷な経験をしながら映画を撮った。これはすなわち、明治の測量手たちが辿った史実の検証とも言えるだろう。木村監督の言った「これは撮影ではない。"行"である」という言葉にすべてが凝縮される。そこには、妥協を許さない監督の姿勢と、妥協を許さない役者魂のぶつかり合いが見て取れる。

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2009年6月
映画「劔岳・点の記」

監督:木村大作
出演:浅野忠信、香川照之 他
上映時間:2時間19分
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