No.150 内祝い号
     
記憶の遺伝
       
              
映画「記憶の棘(とげ)」を観て

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FileNo.061028

半年ほど前「新しい高校生物教科書」(ブルーバックス)という本を読んだ。その中にこんなコラムがあったのを思い出す。“1976年、イギリスのドーキンスは「利己的遺伝子」の考えを発表した。それは「遺伝子は自分自身を増やそうとするものであり、生物はそのための乗り物にすぎないというものである”(248頁)。つまり、ヒトはもちろん、すべての生物は、細胞が生きるための仮の姿ということである。そう思ってこの生物教科書を読むと、なんだかそうかもしれないと思えてくる。40億年をかけて積み上げてきた、生き延びるための知恵を核の中で守り続け、その情報をコピーすることによって、今なお途切れることなく生き続けている。生きることは細胞の「本能」であり、「本能」とは、コピーによって新しく生まれた“次世代の細胞”が“前世代から引き継いだ記憶”に他ならない。細胞に支配されているすべての生物が、生まれながらにして持つ、生き延びるための能力だからである。細胞が自分の身を守るために、「死の恐怖」を生物に与えておくのもその一つだろう。

細胞は、いろんな個体をもって、生き延びるための進化をしてきた。だが、ヒトに関する限り大きな誤算があったようだ。それは大脳新皮質の異常な発達である。ヒトは文明や科学を生み出した。細胞に関係のない高度な世界を形成した。それどころか、こともあろうに、遺伝子を解明し操作できるまでになったのである。九大の超高圧電子顕微鏡は、最大倍率120万倍、コンピューターで処理すれば一千万倍まで拡大可能という。我々にはピンとこない世界だが、細胞にしてみれば「庇(ひさし)を貸して母屋(おもや)をとられる」という状態になってしまった。今年のノーベル生理学・医学賞は、“たんぱく質の合成を阻害する「RNA(リボ核酸)干渉の発見」”だった。最近のニュースを見ても、「ヒトクローン胚研究解禁」「遺伝子をめぐる特許」「食欲を減らすたんぱく質発見」等々枚挙に暇がない。先日も、娘の代わりに祖母が孫を産んだという「代理出産」のニュースが流れていた。生殖補助医療も法律が追いつかないほど進んでいる。

考えてみれば、我々は細胞に対して悪いことばかりしている。WHOの2006年版年次報告書では日本人の寿命は82才(女性86、男性79)で前年に続き長寿世界一だった。65才以上の人口比率も21%になり、これもまた世界一になった。これに少子化で“種の保存”も危険にさらされたのでは、細胞にとって最悪の状況だ。細胞はコピーをつくり、そのコピーを育てて、種を保存できれば使命が終わる。縄文時代の15才の平均余命は16年だった。つまり、ヒトの平均寿命は30歳前後だった訳だ。細胞としては、本来そこで使命が終わるのが自然なのである。30年ほどで終わる仕事を、更に50年も無理やり延ばされている。細胞にとっては望みもしない“延命治療”に等しい。今の人間に当てはめれば、寿命が200才になり、サラリーマンなら100年も会社で働かされるのと同じ状態だ。「細胞権 蹂躙(
じゅうりん)だ」と、細胞が“死ぬ権利”を主張しそうだ。人間30歳を超したあたりから、だんだん体力が落ちてくるのは、細胞のモチベーションが落ちてくるからである。更年期障害というのは、きっと細胞がヒトに対してストライキを起こし、抵抗しているのだろう。

先日、ニコール・キッドマンの「記憶の棘(とげ)」という映画を観に行った。いつもながら非の打ち所のない整った顔をしている。ニコール・キッドマンが生まれるときは、きっと先に遺伝子が描いた“完璧な設計図”があったに違いない。遺伝子が刻む正確な周期に、各細胞が一糸乱れず共働し、設計図どおりに制作した作品なのだ。我々みたいに出来上がったらこうでした、というのとは訳が違う。さて、映画だが、アナ(ニコール・キッドマン)はニューヨークのアッパー・イースト・サイドに住む美しい未亡人。夫は10年前、セトラルパークをジョギング中に急死した。ところが、夫の生まれ変わりだと言う10歳の少年が突然アナの前に現れる。少年は、死別した夫しか知りえない、いくつかの事実を明らかにしていく。ポイントは、ヒトが次世代へ、記憶を引き継ぐことが可能なのかという問題だ。細胞が生き続ける為に必要な記憶をコピーしていくように、人間が記憶を引き継いでいけるようになれるのか。もし、それが可能になればその時こそ、ヒトは細胞を真に凌駕したことになる。

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STORY
監督:ジョナサン・グレイザー
出演:ニコール・キッドマン
10年前に愛する夫ショーンを突然しんぞう発作で失った美しい未亡人アナ。彼女は、心の傷を癒すまで何年も待ち続けてくれた男性ジョゼフと婚約する。そんなアナの前にある日、見知らぬ10歳の少年が現れこう告げる・・・・「僕はショーン。君の夫だ」と。
 最初は子供のいたずらだと思っていたアナは、夫だけしか知らないはずの秘密を語る少年ショーンの言葉に同様する。見かけはあどけない少年でありながら、大人の男性のような愛と情熱を秘めたまなざしでアナを見つめるショーン。ショーンは本当に夫の生まれ変わりなのだろうか?
ウニのゲノムを解読したというニュース(2006/11/10)が流れていた。その遺伝子の数はヒトと大体同じだったという。しかも、遺伝子の70%がヒトと共通していたそうだ。チンパンジーとヒトが近いのはまだ理解できるが、相手がウニというから驚く。しかも、昆虫などよりはるかにヒトに近いという。先日、九州大学の公開講座を聞きに行ったとき、「骨格標本」を見てきたが、確かに脊椎動物は元を辿れば同じであることを実感した。しかし、ウニまでもが70%同じとなると、やはり元々の遺伝子がいろいろな生物を生きるための“よすが”に生き延びてきたと考えると無理がない。つまり、遺伝子が70%出来上がった時点で、ウニへの方向を選んだ遺伝子と、ヒトへの方向を選んだ遺伝子がいた訳だ。やはり人間を含め“生物”は遺伝子が生き延びるための“仮の姿”でしかない。人間を選んだ細胞は、今悔やんでいることだろう。