映画「 紙屋悦子の青春 」を観て
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原田知世さんに、異常接近遭遇!! 「紙屋悦子の青春」が福岡のKBCシネマで上映されるにあたって、初日に原田知世さんと、永瀬正敏さんの舞台挨拶があった。間近で見ると、本当にきれいだ。透きとおるような清楚な雰囲気がただよう。おっとりとして、タレント化していない、女優らしい女優だ。紙屋悦子役にこれほど似合う女優は他にいないだろう。この舞台挨拶で原田知世さんは、台本を手にした時のことをこう話す「去年、本を頂いて・・・読み進んでいくうちに、だんだんせつなくなって、涙がポロポロ出て、読んでいるだけなのに、こんなに引き込まれるっていうものに出会ったことがなくって、こんなにもすばらしい本があるのかと驚きました」。映画を見た後の舞台挨拶だったので、このコメントにはみんながうなずいたはずだ。黒木和雄監督は、急逝しこの作品が遺作となった。原田知世さんは「試写会ではいつものように笑顔で別れたのに、知らせはあまりにも突然で、いまだに受け入れるのに時間がかかっています」と心情を語った。


物語は昭和20年の春。紙屋家の庭先の桜が咲き始めてから散り始めるまでの話だ。紙屋悦子(原田知世)は、3月10日の東京大空襲で両親を亡くしたばかり。鹿児島の米ノ津町で兄夫婦(小林薫・本上まなみ)と暮らしている。鹿児島の空には毎日B29が飛来するほど戦況は悪化していた。そんな毎日を送る悦子は、秘かに海軍航空隊の明石少尉(松岡俊介)に思いを寄せていた。明石少尉もまた悦子に思いを寄せていたが、特攻に志願し出撃の日を間近にひかえている身だった。悦子を愛するがゆえに明石少尉は、信頼する親友の永与少尉(永瀬正敏)との見合いを勧める。永与少尉もまた、以前会った悦子に一目ぼれしていた。最初は抵抗を感じていた悦子だが、永与少尉の不器用で正直な人柄とやさしさに次第に心を開いていく。そんな中、明石少尉は出撃前日最後のお別れに紙屋家を訪れる。明石少尉が去ったあと、悦子はひとり台所で号泣する。永与少尉は、明石少尉が出撃する直前、操縦席から託した悦子宛の手紙を持って訪れる。その永与少尉もまた大村の航空隊に転属になったことを告げる。「まっちょいますから・・・日本がどげんなことになってもまっちょいますから。きっと迎えにきてください」紙屋家の庭には散り始めた桜が舞っていた。


小泉首相は01年の総裁選の前に、鹿児島の「知覧特攻平和会館」を訪れている。靖国神社参拝の一つのきっかけになったのかもしれない。愛する悦子さんの幸せを、親友永与少尉に託して散っていった明石少尉のような人々を英霊として靖国神社に祀り、尊崇することに異論があろうはずがない。A級戦犯にしても、合祀するには合祀するだけの経緯がある。小泉首相は先月8月15日、内閣総理大臣としてモーニング姿で昇殿参拝をした。首相の表情に、英霊への思いと、外国に対する日本の決意を見てとった。そもそも、21年前、中曽根元首相が参拝し、中国に言われて止めたのが間違いの始まりだ。中国は、国内をまとめる道具として、さらに日本から金を引き出す道具として、歴史問題を使ってきた。「江沢民文選」には「日本に対しては歴史問題を常に強調すべきだ。永遠に言い続けなければならない」と記されていたという。これでは、天皇陛下をはじめ、歴代の首相がどれだけお詫びしても“無意味”だったということだ。実に無念の思いである。今回、小泉首相が「いつ行っても同じなら、今日は適切な日ではないか」と話したのも当然である。



明石少尉は出撃を前に紙屋家に挨拶に来る。「沖縄奪回のための作戦に、晴れて参加することになりました」。すべてを知った悦子。気を利かした兄夫婦は台所へ行き、静寂のなか二人だけの時間が流れる。「そげん顔ばせんでください・・・決心のにぶるじゃなかですか」。この言葉には「出来ることなら、愛する悦子さんと結婚して、幸せな一生を送りたい」という人間としての心と、「この身を皇国三千年の祖国のために捧げる」という軍人としての本分が交錯し、揺れ動く心情が表れている。言葉と言葉の“間(ま)”が会話以上に観客に語りかける。明石少尉を見送ったあとの悦子の号泣に、観ている人はみんな泣きます。茶の間で交わされる会話がまた実にいい。ちぐはぐな会話に笑いがおき、表情やしぐさに読み取る心の会話もまた絶妙である。日本の奥深い文化として「行間を読む」というのがある。これは、作者の意図するところや心情などを汲み取ることであるが、戦闘なき反戦映画、まさにこの映画はそんな映画である。

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STORY
監督:黒木和雄
出演:原田知世、永瀬正敏、松岡俊介、本上まなみ、小林 薫
戦況は悪化の一途を辿る昭和20年3月。東京大空襲で両親を亡くした紙屋悦子は、鹿児島の米ノ津で兄夫婦とつつましく暮らしていた。彼女には秘かに思いを寄せる明石少尉がいた。ところがその明石少尉は彼の親友永与少尉を見合いの相手としてすすめてきた。見合い当日、永与は緊張のあまり、ちぐはぐな会話に終始する。しかし、その不器用で正直な人柄に、次第に心を開いていく悦子。そんな中、明石少尉が特攻隊に志願し、間も無く沖縄に出撃することを知らされる。明石少尉は、自分の信頼する親友に、愛する悦子の幸せを託したのだ。出撃前日、紙屋家に挨拶にきた明石少尉。明石少尉が去った後、悦子はひとり台所で号泣する。数日後、永与は、明石の死を悦子に告げる。そして、出撃直前託された悦子への手紙を渡す。永与もまた、大村の航空隊へ転属で鹿児島を去る。永与に悦子は思いを告げる。「待っちょいますから…日本がどげな事になっても、ここで待っちょいますから…きっと迎えに来て下さい」
叔父さんの戦争体験
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人の運・不運は紙一重である。私の母方の叔父さんの戦争体験はまさにそれだ。叔父さんは、昭和19年、徴兵により入隊し満州へ配属となった。半年後の昭和20年2月“戦況悪化”と“日ソ不可侵条約”から南方の守りのため、満州を後にする。ところが船団は、釜山で、敵潜水艦の攻撃により、5隻のうち一隻を残して全部が撃沈してしまう。幹部を乗せた船一隻だけが攻撃を免れたのだが、叔父さんはその船に乗っていた。同じ村出身の兵隊さんが何人も、撃沈した船に乗っていて戦死したという。福岡で部隊を再編成し再び南方を目指すも、戦況はますます悪化。南方への派兵は急遽変更になり、台湾の部隊に合流、台湾の守りに就く事となった。台湾では全く戦闘はなく終戦を迎える。
あらためて叔父さんさんの辿った運命の糸を手繰ってみよう。まず満州に残っていれば、終戦後シベリアへ抑留され、悲惨なことになったかもしれない。さらに、釜山を出航したところでは、まさに九死に一生を得たわけである。また、南方へそのまま派兵されていれば“必死”であっただろうし、台湾といっても、アメリカが沖縄ではなく、台湾を攻撃していればどうなったか分からない。後々の情報で、南方派兵の目的地は“レイテ”だったという。叔父さんの戦争体験はまるで、砲弾の嵐の中を、奇跡的にすり抜けてきたようなものであった。
80歳を越した今も大変元気にされている。