今宿五郎江遺跡
(いまじゅくごろうえいせき

伊都国副官“ひここ”は語る
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FileNo.070904

私の名は“ひここ”という。伊都国の副官の職を務めると同時に、五郎江ムラのカシラでもある。伊都国にはもう一人副官“しまこ”がいる。しまこ副官も西側の深江井牟田ムラでやはり同じ任務についている。今日は二人そろって長官“にき”様に、五郎江ムラ、深江井牟田ムラそれぞれの交易状況を報告に行ってきた。それと帯方郡の郡使様へも表敬訪問してきた。伊都国は中国や朝鮮半島との外交と交易を盛んにおこなっている。交易は外国だけではない。倭国内でも山陰や瀬戸内海をはじめ近畿、東海など交易は盛んである。伊都国の交易の拠点として重要なムラを預かっている私だが、もう一つ重要な使命を負っている。それは、五郎江ムラが、隣の強国“奴国”の最前線基地として、防衛の重要な任務を負っているということである。ムラには濠をめぐらし、短甲(よろい)や弓矢を常に装備して戦いに備えている。しかし、卑弥呼様が邪馬台国の女王になられてからは、緊張状態にはあるものの戦闘はない。奴国も野方ムラに最前線基地をつくってはいるが“一大率”をもって君臨する伊都国を攻めるような危険はおかさないだろう。

高祖山の麓にある私のムラは、豊富な湧き水がでる。普通どこのムラでも井戸を掘っているが、五郎江ムラはその必要がない。水が湧き出るところにセキをつくってダム状(井泉)にし、ムラ人みんなで使っている。そう広くはないが、米も作っている。すべてにわたって年中、水に不自由はしたことはない。しかし、水が常に湧いているせいで、他のムラのような竪穴式住居には住めない。そこで掘立柱の建物を建てて住んでいる。秋には、感謝を込めてムラ人みんなで、水のお祭をする。ムラ人が特別に小さい社(やしろ)を作り、その前には米や酒、魚、木の実などを高杯や器でお供えする。社(やしろ)は卑弥呼様がお祷りをされる祭殿をかたどったものである。ムラ人が楽しみにしている年に一度のお祭りだ。遠浅の今津湾に面した五郎江ムラは、漁業も盛んである。伊都国の有力なムラはどこも海辺に近いので、大抵のムラが米作をしながら漁業もしている。ただ他のクニと違うのは、伊都国の外交や交易を支える航海術に長けているものが多くいることだ。

伊都国には、代々王様がおられた。最初の王様は三雲の王様だ。三雲の王様の先代は、吉武高木にあった早良王国の王様だった。ところが、当時“奴国”の力が強くなってきたことに危機感をもたれた王様は、早良平野ではクニを守ることはできないと考えられた。そこで三方を山に囲まれた自然の要塞であるこの地を選ばれた。平野部分は米を作るのに適し、海岸は今津湾、加布里湾という天然の良港に恵まれ大陸との交流、交易に適していた。先代から引き継がれた三種の神器は、そのまま伊都国王のしるしとなった。吉武高木の王様は、大陸との交易も盛んに行なわれていた。そんな流れから、楽浪郡の官吏だった私の祖先も、三雲の王様から招かれ渡来したのである。以来、私の血筋は、代々伊都国の重要な地位にある。私が首にかけているのは、私の祖先が伊原の王様から賜った内行花文鏡の一片をペンダントにしたものだ。代々の王様が、漢王朝と強い絆を結び、国の基盤を着々と築かれてきたことが、30カ国の長として卑弥呼様を擁立することになった。

鉄器が入ってきてからは、簡単に木の加工が出来るようになった。上鑵子(じょうかんす)ムラをはじめ、どこのムラでも生活に必要な道具は何でも作るようになった。それも使う人に合わせて一個づつ作るので、使いやすく仕事の効率もよい。だが五郎江ムラの技術の高さは群を抜いている。例えば“くりぬき”という技術もその一つだ。更に大陸から来た最新鋭の道具である、ろくろや筆なども使った装飾技術が加わって、その見事な仕上がりは他のムラを圧倒している。筒型漆器などはその良い例だ。筒型漆器は、魔よけの道具の一つとして、30国のなかでも特に五郎江ムラだけで作っている。黒漆の下地に、ろくろと筆を使って赤漆で細かい模様を描く。王様に献上したところ、その仕上がりをたいそう気にいられてお使いいただいている。私は、地頭給ムラの玉造りの技術にも引けをとらない技術だと思っている。ムラ人の暮らしは、農業や漁業や交易で豊かである。これも皆、強いクニをおつくりになった代々の王様のおかげだと感謝している。今の伊都国の繁栄をみれば、早良王国の西遷という決断は、見事だったという他はない。


(これは秋元久英によるフィクションであり、学問的裏づけはありません)

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井泉

筒型漆器(一部)

木製短甲(一部)

組合せ式机
平成19年(2007)12月1日 西日本新聞
青銅製「寶」の印章出土
平安時代、福岡市・今宿五郎江遺跡
 福岡市教委は30日、福岡市西区今宿町の今宿五郎江遺跡から、「寶(宝の旧字)」と刻まれた平安時代前半(9〜10世紀ごろ)の青銅製印章が全国で初めて出土したと発表した。役人クラスの人物が使ったとみられる。遺跡からは官(かんが・役所)で使われたものと同じ瓦も出土し、周辺に官衙級の重要施設があった可能性が高まった。市教委は「太宰府の勢力の広がりを知る上で貴重な発見」としている。
 印章は印面が一辺2.5cmの正方形で、つまみ部分を含めた高さは3cm。下級官僚が文書などに押したとみられるがが、「寶」の意味や詳しい用途は分っていない。調査では、中国の越州窯(えっしゅうよう)系青磁なども見つかっている。
 これまで福岡市では、古代の迎賓館・鴻臚館跡(国指定史跡、同市中央区)から2004年に「開」と刻まれた石製印章(10〜11世紀前半)と、官営の製鉄関連の遺構が確認された元岡・桑原遺跡群(同市西区)で02年に「酒」の土製印章「10世紀ごろ)が見つかっている。また今宿五郎江遺跡を含め三つの遺跡は、太宰府政庁(福岡県・太宰府市)を中心に放射状に延びる公営の道路「官道」沿いに位置していた。元岡・桑原遺跡群の瓦窯跡で焼かれた瓦が、鴻臚館跡と今宿五郎江遺跡からも出土。三遺跡と太宰府との深い結びつきが考えられ、市教委は「高度に発達した政治・文化圏が博多湾に面した福岡市域に形成されていたことをさらに裏付けた」としている。
 「寶」銘の印章は、奈良市の大和文華館一点所蔵するが、発見場所や時代区分が不明。また、三重県明和町の斎宮跡から出土した須恵器(8〜9世紀)から「寶」の押印が確認されている。
  2007/10/20

伊都国女王・王子・王女

コスモスに囲まれた王墓

王墓前に飾られた大鏡

福井神楽(二丈町)