「百」について 随筆のページへ

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FileNo.040912

「百花繚乱」「百戦練磨」「百科事典」「議論百出」「百獣の王」。百という字のつく言葉を探すのに苦労はしない。これらの言葉は、だいたいにおいて「数が多い」ことを意味している。「百獣」の百は、「全ての獣」を意味する。充分 分かっている時は「百も承知」と言い、大きなことをしようとしている時は「百里の道も一歩から」などと言う。百という言葉は、具体的な数ではなく象徴的に使われている特別な存在である。「百日の説法屁一つ」というのもある。永い時間をかけて積み上げてきたものが、ちょっとしたことで崩れ去るという意味だ。具体的な100という数字になるとまた違ってくる。学校ではテストで100点を取ることに一所懸命になり、会社で仕事をしている多くの人は100に悩まされる。予算100%、入社以来定年まで悩まされ続ける数字である。出来れば予算のない世界に行きたいなどと思っている人は多いだろう。

私の随筆も100本目を迎えた。特に100という数字を目指した訳ではないが、一つの区切りとして意味もあり、感慨深いものもある。最初このコーナーを立上げたとき「随筆」などと大それたページ名に気がひけた。それまで文章などほとんど書いたこともなかった。何をどう書けばよいか、全く暗中模索だった。きっかけは、「消費生活アドバイザー」の小論文である。自己啓発の為に、あえて大仰に「随筆」というタイトルにした。ただ思ったことを、何の脈絡もなく書いた。今でも これを随筆と言っていいのかどうかすらも分かっていない。このページを立ち上げて一年あまり経ったころ、通信教育の「文章教室」を半年ほど受けてみた。指導を受けると「あ〜、なるほど」というところが多くあり、勉強になった。しかし、もともと文章の才能がある訳ではない。プロではないから、上手である必要もない。結局、自分史として至らないところがまさに自分であると考え、ありのままで行こうと割り切ったのである。

自分史として振り返ってみると、100本も書けば大体自分の全てが出てしまう。私という一小市民が、どういう事に対しどう思ったのか。どんなことに興味を持ち、どんな生活をしているのか。どんな世の中を生き、どんな人生を送ったか。そういう意味で、出来るだけ自分の生活に身近なことを題材にした。そんな日常的な事は、誰にも知られることなく、自分自身でさえ少し前のことすら正確には覚えていないのが普通である。墓所に行けば先祖の墓がたくさん並んでいる。しかし、それらの人がどんな人生だったのか、どんな考えだったのか知る由もない。その意味では、サイバー上という極めてつかみどころのない場所ではあるが、具体的な形らしきものとして残せることは自分自身にとって少しは価値がある。私一人の存在は、全体から見ればほとんど無に等しいが、私自身にとっての私は100%である。私の自分史は「一寸の虫にも五分の魂」というところである。

「アリとキリギリス」というイソップの寓話がある。夏の間、せっせと働いたアリと楽しいことばかりで過ごしたキリギリスが厳しい冬になって・・・という話しである。一昔前の日本人は、完全にアリ状態で働きすぎを外国から非難すらうけた。今の世の中では、完全なアリでありえないし、また完全なキリギリスでもありえない。あるときはアリになり、ある時はキリギリスになる。このあたりの切り替えが必要だが、人によってその支点の位置がちがってくる。さて、自分史を通じてみた私はどうだったのか。私は明らかに、キリギリス側に支点を置いている。何か興味を持つとすぐに没頭してしまう。「熱しやすく、冷めにくい」のである。あれもこれもと、何だか百貨店状態になってしまった。定年まで後一年。「毎日が日曜日」の夢みたいな生活を楽しみにしつつ、出来るだけ肩の力を抜いて、さらにこのページを続けて行こうと思う。


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