邪馬台国を推理する

随筆のページへ トップページへ

私が、邪馬台国の存在について本格的に興味を持ち始めてほぼ10年になる。それまでも一般常識程度の知識はあったが、直接のきっかけは、安本美典氏の説を偶然目にしてからである。それは邪馬台国=甘木説であり、その根拠は、朝倉地方「夜須町」の周りと畿内「大和郷」の周りの地名の一致である。その地名の一致と相対的な位置の一致を見た時のあの感動を今も忘れない。「目から鱗(うろこ)」とはこう言う事であろうか。以来私は、邪馬台国甘木説を支持している。ここでは、なぜ邪馬台国は北部九州にあったのか、なぜ畿内ではないのかをいろいろな角度から述べてみたい。邪馬台国の推理は、専門的な学問レベルから新聞記事の情報レベルまでどのレベルでもそれなりに楽しめるのがよい。それを前提に、所詮素人が趣味の範囲で述べることであるから少々の不備があってもお許しい願いたい。

@ 里程

「魏志倭人伝」には「…女王自郡至女王國萬二千餘里…」(帯方郡から女王国までは、一万二千里である)と記されている。冒頭には更に詳しい里程が記されいる。郡より狗邪韓国まで7千里、海を渡り対馬国まで千余里、南に千余里で壱岐国、また千余里で末廬国、東南に陸行五百里で伊都国、東南に奴国まで百里、東の不弥国まで百里。ここまでは方角と里程が具体的に記されており、国の所在も誰も異論のないところである。とすれば女王国まで全部で一万二千里であるから、不弥国までの一万七百里を引けば、不弥国から千三百里のところに邪馬台国があることになる。どう見ても北部九州であり、畿内ではありえない。ところが議論百出の元となっているのは、不弥国の次から、突然水行十日で投馬国、水行二十日陸行一月で邪馬台国、と具体性に欠ける表現となっているからである。しかし、帯方郡から不弥国まで里程と方角がしっかり把握されていることから考えれば、それからの千三百里が把握出来てない訳はない。魏の使者"梯儁(ていしゅん)"は240年に来て印綬を卑弥呼に献上しており、247年には、張政が来ている。これらの使者の報告が「魏略」となり、「魏略」を参考に陳寿(233〜295年)が魏志倭人伝を285年ごろ編集したと思われる。卑弥呼没後40年くらいの事であり、卑弥呼の後を受けて邪馬台国の女王となった「壱与」の時代である。私は、ここに解決の糸口があると考えている。その根拠は、後で述べる「邪馬台国・東遷」にある。つまり、魏の使者が来た時は、確かに邪馬台国は九州に存在したが、陳寿が倭人伝を編集したときは、すでに畿内に移っていた。そこで魏略の千三百里を、大和へ書き直す必要が出て来た。実際に行った事の無い大和である。地図をもとに「水行*日」「陸行*月」の表現も致し方ない。地図と言えば「混一彊理(コンイツヘンリ)歴代国郡之図」である。この地図では、朝鮮半島の南に九州があり、その南に本州が描かれている。陳寿の時代よりかなり後年のものであるが、中国における日本の認識を知るには十分である。倭人伝の「南至投馬国水行二十日」「南至邪馬台国水行十日陸行一月」という記述もこれで合理的に説明できる。

A 祭器

弥生時代は、大きく分けて「武器的祭器圏」と「銅鐸祭器圏」に分けられる。西日本における「青銅製武器型祭器」による祭祈と、近畿地方の「銅鐸」による祭祈である。卑弥呼は、「鬼道」により邪馬台国連合を治めていた。この「鬼道」において重要な役割を担っていたのが「鏡と剣」である。邪馬台国時代の「鉄矛・鉄剣・鉄刀・鉄戈」は、主に筑後川流域の朝倉地方及び筑紫・筑後平野に分布しており、鉄器の出土は近畿地方に比べ北部九州に多く見られる。つまり、青銅製武器を祭器にしたのは、鉄製武器の普及によるものであり戦闘用武器において北部九州が圧倒的優位に立っていたと思われる。そして、近畿地方における「銅鐸」は、弥生時代後期に突然姿を消す。それは、邪馬台国が畿内大和に東遷した時期と見事に一致する。大和朝廷の「三種の神器」は「鏡・剣・勾玉」である。「銅鐸」など影も形もない。さらに言えば三世紀までの「鏡と剣」を副葬する北部九州の風習が四世紀から突然近畿地方に現れる。埋葬という重要な儀式においては、先祖から永々と受け継がれてきた文化をそう簡単に変えられるものではない。やはりこの祭器における事実においても、邪馬台国は北部九州に存在しその後、畿内大和に移ったと考えるのが合理的である。

B東遷

安本美典氏は、「倭名抄」に見る筑前の国夜須郡のまわりと大和の国大和郷のまわりとは21地名のうち17地名までまでは発音がほぼ一致しており、しかも21地名の相対的位置もほとんど同じである。これは、民族移動により地名が甘木から大和へ移されたことを示すと論じている。地名というものは、後世においても一番風化しないものである。倭人伝の地名において対馬国・一支国・末廬国・伊都国の現在の地名への比定に全く異論の余地がないのも一例であろう。ここで実際の地名を甘木市と大和を起点に左回りに列記してみよう。

甘木周辺→ 朝倉町、 鷹取山、 星野 、 浮羽町、 杷木町、 鳥屋山、 上山田、 山田市、 田原 、 笠置山、 御笠山、 御笠 、池田 、 三井 、 小田 、 三輪町、 高田
大和周辺→ 朝倉  、高取山、 吉野 、 音羽山、 榛原町、 鳥見山 、上山田、 山田 、 田原 、 笠置山 、笠置 、 三笠山、 池田 、 三井 、 織田 、 三輪町、 大和高田

地名におけるその説得力は高く、実に力強い。
「古事記」「日本書紀」からも邪馬台国東遷を裏付けることが出来る。日本書紀における発生地はすべて九州である。「天孫降臨」「イザナギの禊は筑紫に阿波岐原」「神武東征」などが挙げられる。なかでも「神武東征」は、東遷の事実を踏まえた神話である。「カムヤマトイワレヒコ」は、高千穂を出て、宇佐を通り瀬戸内海を抜け吉備から難波へ入る。生駒山を越え大和盆地に入るところで長髓彦の抵抗に会い失敗するが、再度熊野から入り大和を制圧する。そして橿原の宮において初代天皇として即位するのである。 また別の角度から、検証してみよう。倭人伝に「其南有狗奴国…不屬女王…」とある。邪馬台国は、狗奴国と戦っていた。この戦いの最中、卑弥呼は死んでいる。白鳥庫吉教授は、邪馬台国と対立関係にあった狗奴国を熊襲に比定し、そこから北に邪馬台国の存在を論じた。少なくとも武力面からみて、当時の大和に遠隔地の熊襲と対立するだけの力があったとは到底思えない。邪馬台国が筑後にあったからこそ狗奴国との確執があったと考えるべきであろう。むしろ邪馬台国東遷の直接の原因は「狗奴国との確執」ではないかと私は考えている。

C三角縁神獣鏡

邪馬台国を論じるとき、必ず問題にされるのが「三角縁神獣鏡」である。昨年、「奈良・黒塚古墳」から33面もの三角縁神獣鏡が埋葬時にほぼ近い状態で発見された。新聞にも"「邪馬台国畿内説」を補強"と大きく報道された。しかし、その発掘の状態を見る限り私には、とてもそれが卑弥呼の鏡とは思えなかった。棺内の被葬者の頭部近くには、中国鏡である「画文帯神獣鏡」が置かれ、「三角縁神獣鏡」は棺外に並べて置かれていたという。明らかにその扱いは、重要ではない。このような扱いは、徳島・宮谷古墳でも見られた。「三角縁神獣鏡」は畿内説の重要な柱であるが、中国の王仲氏によれば中国では一枚も出土しておらず、神獣鏡は「呉」にあるので呉の工人が日本で作った物でであろうと言っている。我が国のみで出土するこの鏡は、すでに500枚近く発掘されており当時は、数千枚作られていたのでは…との推測も成り立つ。その三角縁神獣鏡をもって卑弥呼がもらった100枚の鏡を論じるのは、全くばかげた話である。また、その他にも@中国製の鏡が12〜14cmに対し、三角縁神獣鏡は22cmと大きく、中国の規格を逸脱している。A三角縁神獣鏡には、「紐」と呼ばれる紐を通すところがなく、実用的な鏡ではなく記念品的に作った物と思われる。B三角縁神獣鏡は3世紀末から4世紀にかけての巨大古墳から大量に発掘されており3世紀には出ていない。などの理由からも卑弥呼の鏡としては不適当である。卑弥呼の鏡としては「内行花文鏡」や「方格規矩四神鏡」などの後漢鏡が適当であると考える。その「後漢鏡」の出土状況を見ると、総出土数の約83%が九州から出ている。近畿地方からはほんの7%程度である。以上を総合的に判断して、三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡ではないことは明白である。

最後に、九州説としては、「絹織物」にも少し触れておきたい。卑弥呼は、243年に倭錦を魏に送っている。弥生時代の絹織物は、福岡・佐賀・長崎に限られており、九州にしかなかったと思われる。このことを含め、私は邪馬台国は九州にあったと決定したい。


随筆のページへ

トップページへ