TOP
2022年01月へ 2021年11月へ
  雑 感 (2021年12月) 雑感(目次)へ

随筆のページへ

トップページへ

能奉納祭 (糸島市志摩町・櫻井神社)
国宝「翰苑の世界展」 奴国展(伊都国歴史博物館

[2021/12/23]

能奉納祭 (糸島市志摩町・櫻井神社)

1216日、糸島市志摩町の櫻井神社で「能奉納祭」が行われた。主催は「さくらいとしまつり実行員会」で、開催には50社近くの協賛企業とAFF(アーツ・フォ・ザ・フューチャー)という文化庁のコロナ禍を乗り越えるための文化芸術活動の支援の下、開催された。AFFは、伝統文化を受け継ぐための支援である。実行委員会によると『櫻井神社に江戸末期迄、毎年奉納されていた能の再興で、地域の伝統文化を未来に繋げていきたい』という思いからの開催だという。記録では神社創建当初に福岡藩から能が奉納され、櫻井神社には今も貴重な能面10面が大切に保存されている。今回奉納されたのは、舞囃子「絵馬」、狂言「棒縛」、一調「松虫」、能「伊都国さくらい」だった。

 

奉納された「能」は、森本哲郎氏(観世流能楽師)による新作能「伊都国 さくらい」だった。地域の人に「能」をより身近に感じてもらおうという実行委員会の思いから、糸島を舞台とした能の制作を森本氏に依頼したものだという。恵み豊かな糸島の地、古い歴史の神社にまつわる浦姫伝説や、二見が浦の竜神伝説、戦後の糸島などを農業や学問に結び付け、糸島の将来を占うというものである。「詞章」にはこうある。『妙なる女神出て給ふ。そもそもこれハ。櫻井の地に年を経て五穀豊穣を司る。浦姫とハ我がことなり。』『不思議や海風薫じて海路開け、二見が浦大龍神出現し給ふ。奇特かな。』『これより後は糸島栄え。五穀豊穣恵みを垂らす。学堂そびえて顕学集い。学びの都となりぬべし。』

 

伝統とは永遠に変わらぬ本質を持ちながら生きて流れるもの』だと言われる。新しいものを加えて常に活性化していかなければ、「能」の力も衰えていく。それはどんな伝統芸能にも言えることだ。歴史を超えて、広く庶民の間に生き続けるには、人々の心の深い部分にある精神性に触れるものでなければならない。狂言では「棒縛」が上演された。この演目は、これまで何度も観たが、何度観ても面白い。一人は棒で両手を縛られ、もう一人は後ろ手に縛られながらも、どうしても酒が呑みたい。目的を達成するまでの演技が絶妙である。この日も会場から何度も笑いが聞かれた。700年の時を超えても、変わらぬものは人の心の動きである。

 

奉納された日は、小雨が降っていたため、テントが設営された。普通なら“あいにくの雨”などというところだろうが、神社での奉納は違う。雨に洗われた鎮守の森の木々は活き々々とし、かすかな雨だれの音を耳にする。チリやほこりが洗い流された清い風が通り過ぎていく。静まり返った空気を“ヒュー”という笛の音が切り裂き、“コーン”という鼓の音が響きわたる。謡がながれ聴く者の心を厳かにする。「雪・月・花」という日本人の美意識と感受性よる表現。自然豊かな日本にこそ生まれ得た「幽玄の世界」である。普通、能楽は能楽堂などの能舞台で演じられる。しかし、神社における能楽の奉納は、今回のような環境で行われるのが本来の姿のように思われる。
この頁のトップへ

[2021/12/19]
国宝「翰苑の世界」展

大野城市の「心のふるさと館」で、11/0612/19まで特別展「筑紫の至宝〜国宝・翰苑(かんえん)の世界」が開催された。ただし「国宝」の展示は12/7からで、それまではレプリカの展示だった。ということで国宝の展示を待って観に行ってきた。「国宝・翰苑」は、太宰府天満宮が所蔵する国宝『翰苑 巻第卅』のことで、唐の張楚金が660年ごろ中国周辺の国々の歴史をまとめた事典で、平安時代に作られた写本である。事典というのは、それまでの多くの書物を引用し分類したもので、30ほどの書物が引用されているという。太宰府天満宮が所蔵しているのは平安時代につくられた写本だが、中国では既に原文が失われており、太宰府天満宮にのみ現存している貴重なものである。「倭国」については、「魏略」から多く引用され、弥生時代から飛鳥時代までのことが記されていると解説されていた。

私は斯馬国(しまこく)という地名が記されていることから「翰苑」にはずっと興味をもっていた。「翰苑」にはこう記されている。『邪届伊都傍連斯馬』斜めに進んで伊都国に到る。そのそばに斯馬国がある)。具体的に位置が記されている唯一の記録である。斯馬国(糸島市志摩町)の弥生時代の遺跡といえば「一の町遺跡」がある。この遺跡からは、弥生時代中期前半から後期後半にかけての大型建物跡や大量の土器や石器などが出土している。この土器群には器台、高杯など儀礼用の祭祀土器などが含まれ、農耕儀礼として、水辺の祭祀が行われたと推測される。斯馬国は弥生時代中期から後期にかけての拠点集落の中心部として機能していたと思われ、魏志倭人伝に伊都国と並んで記されていて当然のクニである。

「秀麗伝」という中国のテレビドラマが先日まで放送されていた。描かれていた時代は、「前漢」が「新」に滅ばされ、この「新」の王莽を劉秀が破って「後漢」を起こした頃である。ドラマの背景には、建武11年に漢が大部分の失地を回復し、建武13年に15年にわたる征討の末、乱世を終結させ、漢が天下を統一するまでの激しい戦いが描かれていた。しかしあくまでも物語の縦糸は「妻をめとらば陰麗華」、乱世の中にあって劉秀と陰麗華が貫き通した愛の物語である。その劉秀が「後漢」の皇帝“光武帝”である。後漢書にはこうある。『建武中元二年、倭国は貢を奉じ朝賀す、使人自ら大夫と称す。光武賜うに印綬を以てす。』西暦57年、倭国に紫綬(印綬)を下賜した皇帝こそが後漢の始祖「光武帝」である。 

「邪馬台国」についての記載を見みると、「翰苑」には『「廣志」によれば、倭国は東南に陸行すること五百里で伊都国に到る。また南に行き邪馬台国に到る。楽浪郡から万二千里なり』。「魏志倭人伝」には『女王国より北には、特に一大率をおいて諸国を検察させている。一大率はつねに伊都国に置かれる。女王国の南にあるのが狗奴国で、この国は女王国に服属していない』。これらから読み取ると、邪馬台国は、帯方郡から一万二千里のところにあり、伊都国の南にあった。帯方郡から伊都国までは一万五百里であるから、伊都国の南“千五百里”のところに邪馬台国があったことになる。邪馬台国の北には一大率が置かれた「伊都国」(糸島)があり、南には邪馬台国と戦闘状態にあった「狗奴国」(熊本・菊池)があったのだ。このことから推測できる邪馬台国は、朝倉市の「平塚川添遺跡」になる。中国において既に失われた多くの書物を記録した、世界で一つだけの貴重な資料「国宝・翰苑」を見ることができた今回の展示は、非常に有意義なものであった。

この頁のトップへ

[2021/12/10]
奴国展(伊都国歴史博物館)
伊都国歴史博物館で先月、特別展「奴国」が開催された。玄界灘沿岸最大の二万余戸を誇る大国「奴国」の実像に迫るというものであった。「奴国」は、はやくから稲作文化を受け入れ、玄界灘沿岸最大の福岡平野を開拓し、二万余戸の人々を支えていた。解説によれば『初期の稲作の集落からは、木製農具がまとまって出土しており、その種類は豊富で、稲作開始当初から完成された農具が伝えられていた。また福岡平野では、比恵・那珂遺跡を中心に500基以上の井戸が発見されており、豊かな水資源を利用した水田開発は、奴国の人口増加をうながしたものと考えられる』としている。いつの時代も「食」は、ヒトが生きていく上での基本であるから、これがしっかりしていないと産業の発展も望めない。

 

さて、その産業のであるが、奴国の中心である須玖遺跡群からは、奴国繁栄の基となった倭国最大の青銅器工房群があった。解説には『国内最古級の青銅器生産を示す須玖ウタカタ遺跡、ガラス製品工房が須玖五反田遺跡、鉄器工房の存在が確認された赤井出遺跡など、奴国の発展の基盤となった生産遺跡群が密集している。奴国の中枢域に青銅器・ガラス製品等を生産する工房跡が集中していることは、当時の威信財であったこれらの生産に奴国王や王族の存在が大きく関与していたことを示唆する』と書かれていた。弥生時代中期以降、青銅器武器はこの須玖遺跡群で集中生産されていたのである。工房群の製品はクニ(奴国)の一大産業として、山陰地方、四国など西日本一帯に幅広く供給されていた。

 

「奴国」中国の史書に記載されている。「魏志倭人伝」には『二万余戸あり』とある。「後漢書・倭伝」には『奴国が建武中元二年(西暦57)に朝貢し、光武帝は奴国王に印綬を与えた』と記されている。倭国と漢王朝の交流があったのは間違いない。しかし倭のどのクニとなのかが問題である。一般的には、「金印」が志賀島で出土したことから奴国であると言われている。だがこれには異論がある。「かんのわどこくおう」と読み、「委奴国王」は倭国王と理解することができる。「世々王あり」の伊都国に下賜されたものと考える方が無理が無いなどの主張である。単純に言えば、奴国は産業のクニであり、伊都国は政治を司る中心的なクニである。要因は他にもあるが、伊都国に下賜されたと考えるのが妥当のように思う。

 

次の表は正確とは言い難いが、以前私が作ったものである。


日本の今の皇室に受け継がれる伝統・三種の神器は、吉武高木から始まった。それが伊都国、奴国双方に受け継がれている。クニの在り方が産業、政治と競合していないこと、両国が同じ時期に興ったことなどを考えれば、両国は血縁関係にあったのではないかと私は思っている。
「奴国」の王墓は、須玖岡本遺跡である。この王墓からは副葬品として、大型の草葉文鏡など30面近い銅鏡や銅剣ガラス勾玉などが副葬されていた。伊都国の三雲南小路王墓匹敵するものである。弥生時代、北部九州では奴国、伊都国の両雄が並び立ち繁栄を極めていた。

 

この頁のトップへ


雑感(目次)へ 随筆のページへ トップページへ