幻想の世界

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 高速道路を時速100kmで走行中の事である。子供の「携帯電話」が鳴った。会話はごく自然で、会話する事はなんら特別の事ではなかった。しかし、よく考えて見ると、ごく当たり前の事として認識している事が私には不思議に思えた。「カーラジオ」や「カーナビ」にしてもまた同じである。ラジオとは「電波」を「音」にする機械であり、「カーナビ」は人工衛星からの電波を利用した測位システムである。そもそも「電波」とは何であろうか?「電界と磁界が交互に生まれて空間を伝わっていくもの」などという答えを期待している訳ではない。我々は、「電波」を目で確認したり、手で触って確認した訳ではないが、その存在を「携帯電話」や「カーナビ」という状況証拠で認識しているだけの話である。

では、更に突き詰めて考えてみよう。「目で確認できるものは必ず存在しているのか?」という疑問が生じる。人間の目は、非常に緻密に作られているが、錯覚という現象もある。例えば、同じ色でも置かれている状況によって目がごまかされて正しく認識しないという現象である。更に言えば、Aさんが「赤」と認識している色をBさんは「青」に見えているかもしれない。したがってAさんは真っ赤な夕焼けを、Bさんは真っ青な夕焼けを見てきれいだと言っているかもしれない。これを検証するすべは何もないのである。また生来、目の見えなかった人、または見えなくなって相当永い人が、見えるようになった時、目から入った情報を認識するという作業は非常に困難と聞く。つまりその人にとって目に見えただけではそれが事実かどうか判断できないのである。

極端な言い方をすれば、目に見えない物どころか目に見えている物も幻想かもしれないのである。では、我々が手に触れる物なら確かなのか?いやそれも幻想かもしれない。昔 デカルトという哲学者がいた。彼は、この世のすべてを否定する事を試みた。しかし、どうしても疑えないものがあれば、それは絶対確実な真理だろうと考えたのである。そして、ただ一つだけ絶対確実ということを発見した。それは否定を試みている自分の存在だった。それが「我思うゆえに我あり」である。高速道路で車を運転しながら、もしかしたら目に入るすべての情報が実は何も無い幻想の世界なのでは……と「ふっ」と思った。


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